正法寺子安観音の高台から見た雪の大内宿 |
福島県南西部にある、かつての宿場町・大内宿は、
標高900メートルの大内峠の南の山あいにあります。会津若松と日光今市とを結ぶ会津西街道
(下野(しもつけ)街道)の宿駅として栄えました。 |
雪の大内宿を行き交う観光客 |
しかし、明治以降6km南東の麓を通る国道が開かれると、
衰退の一途をたどりましたが、その後、再び茅葺屋根に戻し、舗装道路を撤去し水路を復活するなど、
住民の皆さんの保存運動によって古来の大内宿の姿が蘇りました。 |
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道路の両側には側溝が掘られています。 |
昭和56年(1981年)には
国の伝統的建造物群保存地区の選定を受けました。今、歴史的景観を
訪ねる観光客で賑わっています。 |
安産や幼児の成長を守護するという子安観音 |
『大内宿を守る住民憲章』の目的にはのようにあります。
大内宿は会津西街道の宿場として栄えた所である。また、農業や林業も兼ね心静かな
祖先が生活してきた所である。 |
大内宿の一番奥まった高台にある『浅沼食堂(扇屋分家)』 |
この大内宿を保存することになるまで
十余年の年月がかかったことは我々の責任であり、
祖先に対する不幸であった。 |
奥に向かって左手の家の並び |
今後我々は、保存優先の原則を貫き、
宿場保存と村の発展のため力を合わせ、富の分配を
公平にしなければならない。 |
奥に向かって右手の家の並び |
下郷大内宿伝統的建造物群保存地区
面積 約2.3ヘクタール
国選定 昭和56年(1981年)4月18日
(以下、現地案内板より) |
”きんつば”を売る店『本家玉屋』 |
大内宿は
会津若松と日光・今市を結ぶ南山通り(会津西街道)の
宿駅の一つです。 |
”きんつば”を売る人、買う人 |
この南山通りは、会津藩が
江戸時代初期に会津と江戸を結ぶ幹線道路の一つとして
整備したもので、 |
手打ちそば・民宿の『大黒屋』(左)とおみやげの『えびす屋』(右) |
廻米などの物資の輸送で栄え、
会津藩主も参勤交代の際にこの道を利用するなど
重要な街道でした。 |
主屋は道路から空地を設けて建てられています。 |
大内宿が宿駅として
整えられたのは十七世紀中頃と推定され、本陣・脇本陣が
置かれました。 |
雪だるまやかまくらは、2月12日〜13日に開催された『大内宿雪祭り』の名残でしょうか? |
保存地区は旧街道に沿った旧宿場を
中心とする南北約500メートル、東西約200メートルの
範囲です。 |
毛筆の文字がよく似合っています!! |
この地区の町並みの特徴は
寄棟造の建物が道路と直角に整然と
並べられていることです。 |
花の工芸品が風景に彩りを添えています。 |
主屋は道路から空地を設けて
敷地の北側に後退して建ち、南は余地をおいて奥の土間入口への通路になっており、
倉や納屋は主屋の奥に建っています。 |
復元された本陣。下郷町町並み展示館として利用されています。 |
主屋の多くは江戸時代後期から
明治にかけて建築されたもので、道路側に半間幅の縁をつけ、
その奥の二室を座敷にしています。 |
高倉宮似仁王を祀る高倉神社の入口鳥居 |
道路の中央には広い溝が設けられ、
宿場の用水路として利用されましたが、明治19年になって埋めたてられ道路の両側に
側溝が掘られ洗い場を設けるなどの変遷がありました。 |
高遠(たかそう)そばの『三澤屋』 干し大根の壁が美しい! |
この町並みは、会津及びその周辺地域にみられた
この地方の宿場形態の典型的なもので、その多くが失われた今日でもなお
往時の姿をよく残しています。 |
山里の雪の中で100日間寝かせた日本酒『雪中百姫 大内宿』を置いてある『只浦酒店』 |
また、周囲の社寺や自然環境
とも一体となって優れた歴史的景観を今に伝えています。
文部省・福島県・下郷町 |
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会津松平家の初代藩主保科正之は大変なそば好きだったと伝えられており、また二十数年信濃国高遠藩との密接な関わりがあり、この地域ではみそ味(みそ+大根おろし+ネギ)のそばつゆ「からつゆ」にて蕎麦が食されていた。その後、保科正之が陸奥国会津藩23万石と大身の大名に引き立てられたことがきっかけで、この「からつゆ」蕎麦の食べ方も会津地方に伝わり、発祥地の名を取って『高遠そば』と呼ばれるようになったが、その名が逆に会津から高遠地区に伝わって「からつゆ」蕎麦を『高遠そば』とも呼ぶようになり、それに対して出汁の効いた醤油味のつゆは「あまつゆ」とも呼ぶ。現在福島県の高遠そばは南会津郡下郷町の大内宿の名物として有名である。当地では箸が用意されず、付け合せの長ネギを用いて食す事が特徴である。〜ウィキペディアより |
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ねぎ一本で食べる『高遠(たかとう)そば』とそれを頂いた大和屋(写真左) |
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