♪シチリニアーノ(バッハ)
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旅行記 ・南禅寺と水路閣 − 京都市  2008.09
 南禅寺
歌舞伎で、石川五右衛門が『絶景かな絶景かな』と名台詞を吐くという南禅寺三門
法堂(写真上・右)
 
うち『上の御所』に建設された持仏堂を『南禅院』と称し、現存する南禅寺の塔頭・南禅院はその後身だそうです。『南禅寺』の名前の由来になっています。亀山上皇は正応2年(1289年)、40歳の時に落飾して法皇となりましたが、2年後の正応4年(1291年)、禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名づけました(その後、あとを引き継いだ南院国師によって、太平興国南禅禅寺とを改名されました)。伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇やお付きの官人たちを悩ませましたが、無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したので、亀山法皇は無関を開山に請じたといいます[1]。
 
        南禅寺(なんぜんじ)

 
JR
京都駅からタクシーで約20分。南禅寺は京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派大本山の寺院。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)と称します。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。京都五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の禅寺のなかで最も高い格式を誇ります。また皇室の発願になる禅寺としては日本で最初のものといわれます。南禅寺の建立以前、この地には後嵯峨天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿がありました。この離宮は『上の御所』と『下の御所』に分かれ、
三門
           法堂
 
三門をくぐって、真っ直ぐ正面にそびえるのが法堂(写真上)。禅宗の生命とも云うべき問禅、開堂等法式行事の行なわれる場所で、公式の法要はみなこの法堂で勤められるそうです。内部には、中央に釈迦如来像、獅子に騎った文殊菩薩、象王上の普賢菩薩の三体がまつられています[2]。
 
              南禅院
 
境内の南奥の山手にある南禅院(写真右)は、亀山上皇の離宮・上の宮の跡に造られた別院で、庭園は、鎌倉時代末の代表的池泉回遊式で夢想国師作といわれます。離宮当時の面影を残し、周囲は深い樹林に包まれ、幽玄閑寂の趣があります。
 
        三門(重要文化財)

 
歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)の二幕返しで石川五右衛門が『絶景かな絶景かな』という名台詞を吐く南禅寺三門は重要文化財。ただし、それは創作上の話で、実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)の建築です[1]。三門は寺院を代表する正門であり、山門とも書き、仏道修行のさとりの内容を示す空門、無相門、無作門をも意味しているそうです南禅寺の三門は別名『天下竜門』ともいい、上層の楼は五鳳楼と呼ばれ、知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられています[1][2]。
 
 
南禅院
 水路閣
琵琶湖疎水の一部としてつくられた水路閣は、京都を代表する景観の一つになっています
      
よる交通事情がよくうかがえる。いずれも、西欧技術が導入されて間もない当時、日本人のみの手で設計、施工されたもので、土木技術史上、極めて貴重なものであり、昭和58年7月1日に「疎水運河のうち水路閣及びインクライン」として京都市指定史跡に指定された。また、平成8年6月には、この水路閣、インクラインに加え、第1疎水の第1・第2・第3隧道の各出入り口、第1竪坑、第2竪坑、明治36年に架設された日本初の鉄筋コンクリート橋(日ノ岡第11号橋)、同37年架設の山ノ谷橋などが日本を代表する近代化遺跡として国の史跡に指定された。
 
          〜京都市の案内板より
   史跡琵琶湖疎水のうち『水路閣』
 

疎水事業は、京都府知事北垣国道の発意により、田邉朔郎工学博士を工事担当者として、明治18年起工され、同23年に竣工した。水路閣は、この疎水事業の一環として、施工された水路橋で、延長93.17メートル、幅4.06メートル、水路幅2.42メートル、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持ち、京都を代表する景観の一つとなっている。また、ここから西500メートルにあるインクラインは、高低差のある蹴上げの舟だまりと南禅寺の舟だまりを結ぶ傾斜地に上下2本のレールを敷き、艇架台により舟を運ぶ施設で、当時の舟運に

”建築物はすべからく、美しくなければならない”  田邊朔郎のポリシーによってつくられた水路閣
当時、たまたま卒論のためその水路の実測調査を行なった学生がおり、それが工部大学校校長・大鳥圭介の目にとまり、北垣知事の耳に届いたのでした[4]。学生の名は田邉朔郎、旧幕府砲術方の家に生まれた苦学生でした。彼は卒業ののち京へ招ばれ、北垣知事の決断により京都府御用掛を任ぜられます。ここに、疏水の大工事が端緒につきました。そのようにしてスタートした大事業は、当時の市の年間予算の十数倍という巨額の工事費を必要とし、産業基立金、京都府、国費、市債や寄付金などで賄いきれず、目的税として市民に増税を強いることになりました[1][5]。
      北垣国道と田邊朔郎
 
明治14年(1881年)第3代京都府知事に就任した北垣国道(きたがきくにみち)は、東京へ首都機能が移転したあとの沈みきった京都を復興させようと、維新以来京都府政の宿願だった琵琶湖疎水計画の実行に踏み切ります。舟運・発電・上水道・灌漑用水を目的に、いくつもの山をぶちぬいて長大な水路を造り、日本最大の湖・琵琶湖から京都市内に水を引こうというものでした。それも、日本最初の鉄道が外国人技術者の設計と監督に頼って新橋・横浜間に開通したのがわずか9年前の明治5年だというのに、この疎水の大事業を日本人のみの手で行なおうというのです。さらに驚くことに、北垣国道知事がこの大事業の主任技師に抜擢したのが、当時工部大学校(現在の東京大学)を卒業したばかりの21歳の無名の青年技師・田邉朔郎(たなべさくろう)でした[1][3]。
 
 
しかし、市民からの批判や反発、近隣県の反対などを受けながらも、着工から5年後の明治23年(1890年)に完成しました。工事の遂行に当たっては、ダイナマイトとセメント以外の大半の資材を自給自足し、夜に技術者を養成、昼には実践するという現代ではおよそ想像もつかない努力の積み重ねの連続だったそうです[5]。
 
それにしても、無名の若者に工事を任せた知事も太っ腹なら、実体験も土木工事の経験もなかった中で、全ての自力を尽くして研究し、完成させた若き主任技師・田邊朔郎も凄かったということでしょう。この工事は、その完成度の高さで、英国のテルフォード賞という優秀な土木工事に贈られる賞を受賞しました。
 
建設当時は、社寺のある景観を損なうとの批判・反発がたくさんあったそうですが、『建築物はすべからく、美しくなければならない』という田邊朔郎のポリシーによってつくられた画期的な異国風建造物の水路閣は、歴史的な風土に見事に溶け込み、今日京都を代表する景観の一つになっています。
  
   秋の日や浪漫伝える水路閣  ワシモ
    
【参考サイト】
[1]ウィキペディア(Wikipedia)『南禅寺』
[2]大本山南禅寺公式ホームページ
[3]京都おちこちぶらぶらよそ見旅/南禅寺水路閣
[4]琵琶湖疏水(琵琶湖疎水) 開削の経緯
[5]琵琶湖疏水の歴史(1)/京都市 上下水道局 管理課
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