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永山 武四郎(1837〜1904年) |
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永山 武四郎(1837〜1904年) 天保8年(1837年)、現在の鹿児島市に薩摩藩士の四男として生まれる。戊辰戦争に従軍。明治5年(1872年)から開拓使に移り、北海道開拓使八等出仕となる。明治10年(1877年)に屯田兵第1大隊長に就任し、堀基大佐の指揮のもと、西南の役に従軍する。戦争から帰還した後は屯田事務局長へ累進。その後、1年間の欧米出張をへて明治21年(1888年)第2代目北海道庁長官。明治22年(1889年)屯田兵司令官、明治29年(1896年)第7師団長に就任。同年、陸軍中将に進級。軍を退役した後は貴族院勅選議員を務めるが、明治37年(1904年)議会出席の為上京中に倒れ、5月27日薨去する。死を悟った武四郎は親しい者たちに『我が躯は北海道に埋めよ。必ずやかの地をロシアから守らん』と述べたという。この遺言により北海道札幌市豊平墓地に葬られた。後に里塚霊園に改葬される。現役時代は屯田兵を掌握し軍部内では一大勢力だったが、本人に政治的野心はなく、中央の政治抗争のためにその力を行使することはなかった。終生北海道を案じ、その身を捧げた武人であった。永山神社(北海道旭川市永山地区)・北海道神宮末社開拓神社(札幌市)に祀られ、永山神社には銅像が建立されている。武四郎の生誕の地である鹿児島県鹿児島市薬師にはそれを記す説明板が設置されている。(以上、ウィキペディアを参考) |