♪Prologue
Kaseda Music Labo

        
       
旅行記 ・長崎堤防 − 鹿児島県薩摩川内市 2012.07
     
  高江三千石  
高江の水田地帯の案内板(峰山校区生涯学習振興会)
高江太郎太郎踊りの唄
高江名所は 白浜堤防と長崎堤防(どて)よ〜 前は柳山 広潟田んぼ 高江三千石 高江三千石 あの火の地獄〜
  
川内名所は 新田の八幡 太平橋よ〜 前は清水丘 鯉料理 笹野やボンタン漬け 寺の衆路では くずまんじゅう〜
 
高江三千石 筑後川に次いで九州で2番目の規模を誇る川である川内(せんだい)川の河口から約4kmほど上流のところに位置する薩摩川内市高江町の長崎新田は、かつて周囲が四キロメートルもある湾入した広大な沼地で、干潮時は干潟となり、満潮時は川舟が通るほどの水の深さになりました。人々は、この沼地の一部を水田として整備し、稲作を行っていましたが、大雨が降るたびに川内川の堤防が壊れ、流れ込む泥や水や海水で米が一粒も採れなくなるほどの大きな被害に遭って難儀をしていました。
長崎堤防
鋸の刃状の突起部が7ヶ所ある長崎堤防
長崎堤防 その過酷さは、「親がやるとも 高江はいやよ 高江三千石 火の地獄」「高江田圃の 泥米食よか 生れ在所の 粟がよか」と俗謡に唄われたほどでした。そこで、第19代藩主島津光久は、小野仙右衛門(おのせんえもん)を普請奉行に任じ、この地の大規模な干拓工事を命じました。
水神。『文政12年』(1829年)とあります。
工事は延宝7年(1679年)に着工し、約8年の歳月を費やして貞享4年(1687年)に竣工しました。川内川左岸のこの広潟は、周囲3里、堤防の長さ360間(640m)、開発された新田の面積300町歩(約3km2)にも及ぶ立派な水田に生まれ変りました。そして、この堤防を「長崎堤防」と呼びました。
長崎堤防から川内川河口を望む(長崎堤防案内板と水神)
薩摩の治水工事といえば、江戸幕府に命ぜられて薩摩藩士が行った木曽川の宝暦治水工事(現在の岐阜県海南市)が知られていますが、それより68年前のことでした。当時の工法は、そのほとんどが人力に頼り、その上、しばしば洪水に襲われ、築いては崩され、また築くという大変な難工事でした。
長崎堤防の鋸の刃状の突起部
仙右衛門は苦心の末、鋸(のこぎり)の刃のような形の堤防を考案して、やっと川内川の激しい水流を抑えることに成功しました。鋸の刃状の突起部が7ヶ所ある堤防の形は、水の勢いを弱めるための工夫で、全国でも珍しく、その設計の素晴らしさは現在も専門家から高い評価を受けて、「平成23年度選奨土木遺産」に選定されました。
小野神社から見た長崎堤防 
小野神社
小野仙右衛門を祀る『小野神社』(鳥居と小野仙右衛門翁顕彰碑)
袈裟姫伝説 長崎堤防の大きな困難と犠牲をともなった工事は、『袈裟姫(けさひめ)伝説』としても語り継がれています。ある夜、仙右衛門は「横はぎの着物を着た娘を人柱にたてよ。その流れのままにそって堤防を築け」と告げる不思議な夢を見ました。
小野神社の裏手に磨崖『心』があります。
翌朝、同じ夢を見た仙右衛門の娘の袈裟(けさ)は、縦じまの着物横布をあてて繕った着物を着て、自ら川に身を投じたのでした。仙右衛門は嘆き悲しみながらも、夢にあった通り、長い縄を流れにのせて流してみると、縄はくねくねと七か所曲がりながら流れていきました。仙右衛門が、この縄の形のとおりに石垣を築き、ようやく工事がうまくいったと言い伝えられています。
磨崖『心』
小野神社 長崎堤防のすぐ下流には小野仙右衛門を祀った小野神社があり小野仙右衛門翁顕彰碑が建てられています。神社裏の崖には、仙右衛門が工事の完成を祈って刻んだ『心』の文字が残されています。築いては洪水で崩され、また築くという大変な難工事の中で彫った仙右衛門の辛さを思い知らされるようです。
小野仙右衛門が工事の完成を祈って刻んだ『心』の文字 
江之口橋
岩永三五郎によって嘉永2年(1849年)に架けられた江之口橋
江之口橋 高江の新田に関する話はこれで終わりではありません。新田で安定して農業を行うには八間川の治水も必要でした。長崎堤防が完成すると、川内川から潮が遡上することはなくなりましたが、低水地であることには変わりがなく、高江の山手で大雨が降ると低地の新田地帯に一斉に流れ込みます。
江之口橋のすぐ後は川内川の堤防です。
山手から一斉に流れ込んできた大水が水田を何日も浸水させることが多く、農家は水田の被害に長年苦しんでいました。このような洪水を何とかしようと薩摩藩は、長崎堤防の竣工から162年後の弘化5年(1848年)に八間川の大開削工事に着手しました。この工事に携わったのが肥後の名石工・岩永三五郎でした。
八間川に架かる水路橋
岩永三五郎は、薩摩藩家老・調所広郷に招聘され、西田橋をはじめとする鹿児島『五大石橋』を架設しました。岩永三五郎は、嘉永2年(1849年)八間川に江之口橋を架けました。また、八間川に架かる水路橋も三五郎が手がけたものです。三五郎はこの年に肥後に帰っていますから(その2年後に死去)、薩摩藩への最後の御奉行として惜別の情を込めつくったものだといわれています。
青田が広がる高江の水田
【参考サイト】
(1) 土木紀行 長崎堤防
(2) あきらめなかった小野仙右衛門
(3) 高江町 (ふるさと薩摩川内)
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