ワシモ(WaShimo)のホームページ
 
旅行記 ・青森県立三沢航空科学館- 青森県三沢市  2013.11.09
青森県立三沢航空科学館
青森県立三沢航空科学館
青森県立三沢航空科学館 青森県が航空史に果たしてきた役割を広く全国に情報発信し、「大空」と「飛翔」をテーマに、未来を担う子どもたちが楽しみながら、科学する心、感動する心、挑戦する心を育む施設として青森県により建設された博物館です。場所は、航空のまちとして発展し、大空のまちづくりを進めている三沢市が整備する「三沢大空ひろば」の一角にあり、2003年(平成15年)に開館しました。
 
三沢大空ひろば案内図
館内1階には、日本エアコミューターで使用していたYS-11や太平洋無着陸横断飛行に初めて成功したミス・ビードル号のレプリカなどが展示されています。2階は科学体験のフロアになっており、実際に体験や実験などが出来るコーナーもあります。3階には展望デッキがあり、三沢飛行場を一望できるようになっています。三沢大空ひろばには、F-16やT-2「ブルーインパルス」仕様などが展示されています。
ミス・ビードル号
ミス・ビードル号(Miss Veedol)の復元機
ミス・ビードル号(Miss Veedol) 日本からアメリカ本土までの最初の太平洋無着陸飛行に成功した飛行機。アメリカ・べランカ社製の単発5人乗りの旅客機で、後部座席と機体底部を燃料タンクに改造して約3,600L(ドラム缶18本分)の燃料を積み込み、太平洋無着陸横断飛行に挑戦しました。また、飛行中の空気抵抗を減らして燃料の節約をはかるために、離陸後車輪を切り離せる構造にしていました。クライド・パングボーンとヒュー・ハーンドンの乗ったミス・ビードル号は、三沢市の淋代(さびしろ)海岸を離陸し、1931年(昭和6年)10月5日、アメリカが合衆国ワシントン州ウェナッチ市に胴体着陸し、北太平洋を無着陸で横断した最初のパイロットとなりました。二人は1931年のハーモン・トロフィー(その年に最も優れた飛行を行ったパイロットに贈られる賞)を受賞しました。
パングボーンとハーンドン
ドラム缶18本分(約3,600L)の燃料を積み込みました。
 
YS-11
YS-11
YS-11 航空王国復活を期して製造された戦後唯一の国産旅客機で座席数64のプロペラ機です。旧陸海軍戦闘機の設計者が参加したことで、頑丈な機体になったといわれます。試作機初飛行以来、改修に改修を重ね、世界標準にも勝る機体となり、1964年(昭和39年)の東京オリンピックの時には、聖火を日本全国へ空輸し、航空王国復活をアピールしたものでした。
YS-11
合計 182機(国内民間機75機、官庁34機、輸出13カ国76機など)が製造されましたが、経営的には赤字が重なり、1971年(昭和46年)政府は、生産中止と販売終了を決定しました。国内では、日本エアコミューター(JAC、本社鹿児島県霧島市)が最後まで二機を保有していましたが、2007年から空中衝突防止装置の設置が義務づけられることから、機体寿命より早く、2006年9月30日に日本の国内路線からの引退となりました。
YS-11の操縦席
展示されている機体(YS-11A-500型機・JA8776)は、1971年(昭和46年)5月に、日本航空機製造株式会社(NAMC)で製造され、東亜国内航空で愛称『しれとこ』として就航し、2002年(平成14年)11月18日まで、日本エアコミューターで、鹿児島~屋久島・種子島・奄美大島・沖永良部島・与論・福岡/福岡~高松・徳島・高知・出雲/出雲~隠岐/伊丹~隠岐の12路線を運行していました。
一式双発高等練習機
十和田湖より引き上げられた一式双発高等練習機
旧日本陸軍一式双発高等練習機 第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の練習機。開発・製造は立川飛行機。帝国陸軍の指示のもとに、全金属・双発・引込脚式を基本とし、正副操縦者のほかに操縦訓練生・航法手訓練生・通信手訓練生・爆撃手訓練生・旋回機関銃手訓練生などの生徒とその教官・助教、計6~7名が乗り組むことができる高等練習機として、開発され、1941年(昭和16年)に一式双発高等練習機として制式採用されました。
十和田湖より引き上げられた一式双発高等練習機
エンジンの信頼性が高く機体の耐久性に優れ、また使い勝手に優れた傑作機であったため、操縦・航法練習機型の甲型、通信・爆撃・射撃練習機型の乙型といった多目的練習機だけではなく、輸送機型の丙型、哨戒機型の丁型も生産され、連絡機としても使用されました。生産は1945年(昭和20年)6月まで行われ、1,342機が製造されました。十和田湖に69年前に沈んだものが、2012年(平成24年)9月5日、引き上げられて復元され、2012年11月1日から一般公開されています。
在りし日の一式双発高等練習機と搭乗員(展示パネルを撮影)
機体は水深300m強の湖底に着底していて、年間を通し水温が4~5℃で、かつ淡水のため機体の腐食が少なく、垂直尾翼の飛行部隊マークや胴体の国籍標識(ラウンデル)の日章など、当時の塗装のまま見ることができます。日本国内には現存する機体はなく(中国の北京航空航天大学北京航空館にある同機の機体胴体部分のみが現存する)、航空遺産としても非常に重要なものになっています。(以上、Wikipedia を参考)
 零式艦上戦闘機(レプリカ)
零戦21型の実物大レプリカ
零式艦上戦闘機 零式(れいしき)艦上戦闘機は、第二次世界大戦期における大日本帝国海軍の主力艦上戦闘機。零戦(ぜろせん)の略称で知られている。太平洋戦争初期、2200kmに達する長大な航続距離、20mm機関砲2門の重武装、優れた格闘性能を生かして米英の戦闘機に圧勝し、太平洋戦線の占領地域拡大に寄与しました。
零戦21型の実物大レプリカ
しかし、大戦中期以降には、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立や新鋭戦闘機の大量投入、日本側の多数の熟練搭乗員の戦死、後継機の開発の遅れによって、零戦に頼る日本海軍航空隊は劣勢に追い込まれました。開発元は三菱重工業ですが、中島飛行機でもライセンス生産され、総生産数の半数以上は中島製でした。(設計者:堀越二郎、運用開始:1940年7月、退役:1945年8月、生産数:10,430機)(以上、 Wikipedia を参考)
零戦21型の実物大レプリカ
平成23年に上映された、映画『連合艦隊司令長官 山本五十六 ~太平洋戦争70年目の真実~』(監督:成島出、出演:役所広司、2011年12月23日に公開)映画撮影用に使用された零戦21型の実物大機を展示しています。全幅:12.0m、全長:9.05m、最大速度:533.4km/h、航続距離:2,530km、エンジン:栄一二型空冷複列星型14気筒、940馬力、1940年試作機完成。
  零戦(実機)のプロペラと脚部
小川原湖より引き上げられた零戦(実機)のプロペラ
1998年(平成10年)3月25日に三沢基地のすぐ近くの小川原湖で、航空機の部品とみられる3つの物体が漁網に引っ掛かりました。①茶色く塗られたプロペラ。直径約2.9mで根元に”佳98968”もしくは”佳98963”の刻印がある。②左主脚の脚柱とその基部。脚柱は黒、基部の周囲にくっついている主翼の桁らしきものには俗に言う”青竹色”のさび止めが施されている。脚柱には”中島72633号”の塗装がある。③桁のような小さな部品 主翼の桁の一部とみられる”青竹色”のさび止めが施されている。
小川原湖より引き上げられた零戦(実機)の脚部
奈良原式2号機
奈良原式2号機(実大模型)
奈良原式2号機 奈良原三次(1877‐1944、日本の航空界の先駆者。鹿児島市生れ)によって設計された飛行機でノーム50HP(馬力)エンジンを搭載し、1911年(明治44年)に高度約4m、距離約60mを飛び、国産機による初の飛行に成功しました。
展示機種
(三沢大空ひろば)
F-16A(米空軍より借受)
F-104J(航空自衛隊最初の超音速戦闘機)
T-2(初の国産超音速機)
T-2(ブルーインパルス仕様)
UP-3A(大型対潜哨戒機)
F-1(航空自衛隊で使用された支援戦闘機)
【参考サイト】
(1)青森県立三沢航空科学館-Wikipedia
(2)青森県立三沢航空科学館 公式ホームページ

(3)一式双発高等練習機-Wikipedia
(4)零式艦上戦闘機-Wikipedia
あなたは累計
人目の訪問者です。
 

Copyright(C) WaShimo All Rights Reserved.