二ノ門跡 |
その途中の1604年(慶長9年)に忠氏が27歳で急死。 忠氏の遺志を継いだ吉晴によって1607年(慶長12年)
末次城址に築城を開始し、1611年(慶長16年)の冬、松江城が落成しますが、今度は堀尾吉晴が完成目前で急死(69歳)、孫の忠晴が13歳で城主となります。1633年(寛永10年)
堀尾忠晴が34歳で没すると、嗣子なかったため堀尾氏は3代で改易となり、翌年、京極忠高が若狭国小浜藩(若狭・越前敦賀郡)より出雲・隠岐両国26万石で入封、三の丸を造営し、ここに松江城の全容が完成しました。
小泉八雲文学遺跡の碑
『ここは八雲の在松中、尋常中学校の運動場であった。その模様を八雲は英語教師の日記の中にかき、また通勤の近道であった』とあります。 |
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松江城とその歴史 |
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宍道湖と中海に挟まれた地域に広がる都市・松江市は島根県の県庁所在地であるとともに、山陰の中心都市です。その松江のシンボルである松江城は、千鳥が羽根を広げたように見える入母屋破風の屋根が見事なことから、別名『千鳥城』とも呼ばれています。
現在松江城がある地には、鎌倉時代から戦国時代かけて末次城が置かれていました。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いでの戦功により、堀尾吉晴、堀尾忠氏親子が24万石を得て月山富田城(がっさんとだじょう、島根県安来市広瀬町富田)に入城し松江藩が成立します(前城主の吉川広家は岩国へ転府)。しかし、月山富田城は中世山城であり近世城下町形成には不利であったので、末次城址を近世城郭の候補として、築城場所の選定を始めました。 |
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小泉八雲文学遺跡の碑(松江城公園内) |
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