♪トロイメライ(夢)
うっちいの音楽箱!

    
    
旅行記 ・松江と島根ワイナリー − 島根県  2010.11
松江城
大手前の道路から見た松江城のお堀風景
二ノ門跡
その途中の1604年(慶長9年)に忠氏が27歳で急死。 忠氏の遺志を継いだ吉晴によって1607年(慶長12年) 末次城址に築城を開始し、1611年(慶長16年)の冬、松江城が落成しますが、今度は堀尾吉晴が完成目前で急死(69歳)、孫の忠晴が13歳で城主となります。1633年(寛永10年) 堀尾忠晴が34歳で没すると、嗣子なかったため堀尾氏は3代で改易となり、翌年、京極忠高が若狭国小浜藩(若狭・越前敦賀郡)より出雲・隠岐両国26万石で入封、三の丸を造営し、ここに松江城の全容が完成しました。
  
小泉八雲文学遺跡の碑
『ここは八雲の在松中、尋常中学校の運動場であった。その模様を八雲は英語教師の日記の中にかき、また通勤の近道であった』とあります。
  松江城とその歴史
宍道湖と中海に挟まれた地域に広がる都市・松江市は島根県の県庁所在地であるとともに、山陰の中心都市です。その松江のシンボルである松江城は、千鳥が羽根を広げたように見える入母屋破風の屋根が見事なことから、別名『千鳥城』とも呼ばれています。
  
現在松江城がある地には、鎌倉時代から戦国時代かけて末次城が置かれていました。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いでの戦功により、堀尾吉晴、堀尾忠氏親子が24万石を得て月山富田城(がっさんとだじょう、島根県安来市広瀬町富田)に入城し松江藩が成立します(前城主の吉川広家は岩国へ転府)。しかし、月山富田城は中世山城であり近世城下町形成には不利であったので、末次城址を近世城郭の候補として、築城場所の選定を始めました。
小泉八雲文学遺跡の碑(松江城公園内)
一ノ門
一ノ門の入口、ここをくぐれば天守閣
1935年(昭和10年)に天守が旧国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定されますが、1950年(昭和25年)の文化財保護法の施行に伴い、重要文化財に指定されました。その後、本丸一ノや南多聞の一部、 三の丸と二の丸を結ぶ廊下門などが復元され、現在に至っています。2006年(平成18年)日本100名城(64番)に選定。
しかし、1637年(寛永14年)忠高も嗣子無く没します(京極氏は一時廃絶、のちに他国で再興される)。1638年(寛永15年)信濃国松本藩より松平直政(徳川家康公の孫にあたる)が18万6千石で入封し、以後、明治維新まで続きました。明治に入って廃藩置県により、廃城、廃城令が公布されると、天守を除く建造物は全て破却されました。天守も当時の価格で180円という値で売却されることとなりましたが、有志の運動により買い戻され保存されました。
石垣から垣間見る天守閣
別名『千鳥城』とも呼ばれる松江城の天守閣

 堀川沿いの風景
朱塗りの鳥居がひときわ鮮やかな『城山稲荷神社』
途中には、しじみ汁を出すお食事処が・・・
入国して十年目の年に起きた天候不順に心を痛めた直政公は、この神社の御神体を船に載せて出雲郷(あだかえ)にある阿太加夜(あだかや)神社に運び、五穀豊穣を祈願する祭礼を行ったところ祈願が成就しました。以来、十年目毎に御神幸が行われる慣しとなったいわれます。現在では、約100隻の船が大橋川、意宇川を舞台に繰り広げる豪華絢爛な時代絵巻『ホーランエンヤ』(城山稲荷神社式年神幸祭)が12年に一度行われています。
  城山稲荷神社(じょうざんいなりじんじゃ)
天守閣から北へ下りて、小泉八雲旧居、武家屋敷へ向かく遊歩道にひときわ鮮やかな朱塗りの鳥居が見えるるのが城山稲荷神社です。松江城山内の散歩が好きだった小泉八雲も毎日のようにこの神社に通い、お気に入りの石狐があったそうです。この神社は、松平直政公が藩主として入国した翌年、藩内の安穏と繁栄を祈念して、かねて信仰していた稲荷大神を出雲隠岐両国の守護神として城内に祀らせたものです。
稲荷神社を過ぎて遊歩道を下ると『稲荷橋』にでます
 稲荷橋のすぐ北にあるのが『新橋』、欄干の造形が歴史文化的景観を醸成しています。
堀川めぐりの遊覧船が見えます。松江城を囲む約3.7kmの堀川を小舟に乗ってのんび遊覧します。
鍛冶業を受け継ぐお店などが・・・
その道路を進むと交差点に行き当たり、右折するとそこからが『塩見縄手』と呼ばれる通りです。交差点の角には松江名物『ぼてぼて茶』を出すお食事処が。『ぼてぼて茶』は、大振りの茶碗に番茶と茶の花を入れ、大きな茶せんで泡立てた後、ご飯と漬物炊いた黒豆や季節ものなどの具を入れたもので、お茶というよりお茶漬けに近いものです。
新橋を渡りきって、堀川沿いの道路を北上すれば、左側に、手づくり雑貨や藍染工房、鍛冶工房などの店が並びます。『鍛冶工房弘光』は、江戸時代の操業から打刃物、小農器具、生活用具、そして刀剣鍛錬の鍛冶業を受け継ぐ一方、玉鋼、和鉄、鉄による工芸品の制作に取り組み、出雲の鉄文明・技術を継承しているお店だそうです。
松江名物『ぼてぼて茶』を売る店が・・・
 
 小泉八雲旧居
小泉八雲記念館・旧居からが武家屋敷へ続く『塩見縄手』 
昭和15年(1940年)国の史跡に指定
小泉八雲旧居
ラフカディオ・ハーンが、旧士族根岸家の武家屋敷を借りて(明治24年(1891年)5月から熊本に転任する11月までの6か月間住んだ邸宅です。八雲が居間として使用していた9畳の部屋からは三方に日本庭園を望むことができます。八雲は当屋敷で『知られざる日本の面影』をはじめとする多くの原稿を書き上げました。『知られぬ日本の面影』第十六章『日本の庭』は当屋敷について書かれたものです(ウィキペディアより) 。ウィキペディアより
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

1890年(明治23年)40歳のとき、アメリカの出版社の通信員として来日。来日後契約を破棄し、日本で英語教師として教鞭を執るようになり翌年結婚。松江・熊本・神戸・東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く遺しました。著名な日本・日本文化紹介者の一人であり、日本人にとっても、祖国の文化を顧る際の、重要なよすがとなっています。1904年(明治37年)狭心症により東京の自宅にて死去、満54歳没。墓は東京の雑司ヶ谷墓地(ウィキペディアより)。

ラフカディオ・ハーン(1850〜 1904年)
小泉八雲旧居 〜 旧士族根岸家の武家屋敷を借りて住んだ邸宅
     
武家屋敷
松江藩の中級武士の住居とし使用された武家屋敷
武家屋敷長屋門
武家屋敷
武家屋敷は、侍町であった塩見縄手のほぼ中央に現存する侍屋敷を利用した資料展示施設となっています。 面積が約70坪の母屋と中間の住居として用いられていた長屋と長屋門、ほかに裏門、庭園が現存し、建物は松江市の文化財に指定されています。明治維新まで松江藩の中級武士の住居として使用されました。
塩見縄手
松江城北側の堀沿いの、小泉八雲記念館・小泉八雲旧居から田部美術館、武家屋敷、明々庵までの約500mの通り一帯は江戸時代の侍町で、塩見縄手(しおみなわて)と呼ばれます。地名は、かつて通りの中ほどにあった松江藩中老で町奉行の塩見小兵衛の屋敷に由来するいわれています。
この老松は江戸時代当時のものです
刀、槍、薙刀などの武器や武士の日用品などを展示する博物館として利用されています。
島根ワイナリー
島根半島の北山にそびえる弥山を借景した『島根ワイナリー』
ワインの本場南欧を彷彿させる建物・・・
ワインの本場南欧を彷彿させるレンガ色の瓦に白い壁のしゃれた雰囲気のワイナリーには、島根ワインの無料試飲コーナー、島根のおいしい特産品の販売を行う試飲即売館や、上質な島根和牛が楽しめるバーベキューハウス、憩いの時間を提供する喫茶などがあります。
出雲大社から国道431号を東へ約2km走った出雲大社のお膝元に(株)島根ワイナリーはあります。ワインを製造する、JAグループの関連会社で、1959年(昭和34年)の醸造開始。島根ぶどうの生産振興の一翼を担うと同時に島根にしか出来ない味をコンセプトに、個性豊かなワイン造りに取り組んでいるそうです。
島根ワイン、ワイン醸造館
無料試飲コーナー、島根の特産品即売館やバーベキューハウス、喫茶などの施設があります。
【参考にしたサイト】
本ページは、ウィキペディアの松江城、小泉八雲、小泉八雲旧居、塩見縄手および武家屋敷のページのほか、下記のページを参考にして作成しました。
(1) 松江城ホームページ

(2) 松江堀川遊覧船 ぐるっと松江「堀川めぐり」
(3) 島根ワイナリー - 水と緑と青い空・・・彩り豊かなワイナリーへようこそ
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