神門神社の『願掛けひょうたん』 |
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福智王は、18里先の火弃(ひき、現在の児湯郡木城町比木)に宮居を定めました。しばらくは親子ともども、平和の日々が続きましたが、やがて百済から追討の軍がやってきて、貞嘉王の軍は神門近くでこれを迎撃し、福智王もまた兵をひきいて戦いましたが、追っ手と激しい戦いになり、親子は戦死してしまいます。村人たちは、王族の死を悼み、禎嘉王の霊をこの地の産土神(うぶすながみ)として神門大明神に祀り、福智王の霊を火弃大明神として比木神社に祀りました。神門神社と比木神社では、禎嘉王と福智王の年に一度の対面を再現する祭りである『師走まつり』が今日まで脈々と続けられてきました。 |
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日向『百済王伝説』 |
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『神門神社縁起』によれば、百済の王、禎嘉王(ていかおう)は、その子福智王(ふくちおう)に譲位して三年目にあたる年に国内に大乱がおき、その難を逃れて福智王とともに日本へわたり、
756年(天平勝宝8年)に安芸国(現在の広島県)の厳島あたりに辿り着きました(1)(2)。しばらくの間そこに滞在しましたが、反乱軍の追撃を警戒して、その二年の後に筑紫(現在の福岡県)にむけて再び船を出したところ、天候が急変して、日向国の臼杵郡金ケ浜(現在の日向市)に漂着し、上陸して西の山奥7〜8里の神門(現在の美郷町南郷区)に宮居を定めました。一方、福智王の船は、児湯郡蚊口浦(現在の宮崎県高鍋町)に漂着しました。 |
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日向百済王伝説マップ |
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