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松円寺窯(大石泰浩) |
明治維新によって藩の庇護を失った唐津焼は、急速に衰退、有田を中心とした磁器の台頭もあって、多くの窯元が廃窯となった。だが、後の人間国宝・中里無庵が『叩き作り』など伝統的な古唐津の技法を復活させ、再興を成功させた。現在は、約50の窯元があり、伝統的な技法を継承する一方で、新たな作品を試みるなど、時代の移り変わりの中で、着実な歩みを遂げている。(以上、ウィキペディアより抜粋、転載) |
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だが、江戸時代に入って窯場が林立したために、燃料の薪の濫伐による山野の荒廃が深刻な問題となった。それ故に、鍋島藩は藩内の窯場の整理・統合を断行、それによって窯場は有田に集約されたため、唐津も甚大な影響を被り、多くの窯元が取り壊された。しかし、唐津の茶器は全国でも評判が高かったため、茶陶を焼くための御用窯として存続した。その間の焼き物は、幕府への献上品が多数作られたため、献上唐津と呼ばれる。 |
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