旅行記 ・唐津くんちの曳山を訪ねて − 佐賀県唐津市 2007.05 |
♪島の祭り |
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唐津くんちの曳山を訪ねて |
観光・唐津城 |
唐津は、その名が示唆するように、中国大陸(唐)に通じる港町(津)として早くから開けたところでした。唐津といえば、唐津神社の秋季例大祭で、16世紀の終わりに始まったといわれる『唐津くんち』。『おくんち』(御九日)とは、本来、旧暦9月9日に行われる氏神の祭りを意味しますが、『御供日』『御宮日』などと書かれるようになりました。毎年11月3日を中心に行なわれる唐津くんちの最大の呼びものは、氏子が奉納する勇壮華麗な14台の曳山行列です。この曳山は、文政2年(1819)に、刀町の木彫家だった石崎嘉兵衛という人が伊勢参りの帰途に京都で見た祇園山笠をヒントにして、仲間たちと赤獅子をつくり奉納したのが始まりだといわれます。 |
唐津神社 |
文政2年(1819年)に刀町の赤獅子が奉納されて以来、明治9年(1876年)の江川町の七宝丸まで、57年間に15台の曳山が奉納されてきました。そのうち、安政6年(1859年)から文久2年(1862年)の間に制作されたと思われる紺屋町の黒獅子は、残念ながら明治中期に損滅し、現在は14台が保管されています。黒獅子の復活が考えられているそうですが(現在のところ未定)、制作に1億円以上かかるそうです。14台の曳山を唐津市の『唐津曳山展示場』に訪ねました。勇壮華麗な唐津曳山をご覧下さい。 |
十四台の唐津曳山 |
一番曳山 刀町の赤獅子 文政2年(1819年)制作 |
二番曳山 中町の青獅子 文政7年(1824年)制作 |
三番曳山 材木町の亀と浦島太郎 天保12年(1841年)制作 |
四番曳山 呉服町の九郎判官源義経の兜 天保15年(1844年)制作 |
五番曳山 魚屋町の鯛 弘化2年(1845年)制作 |
六番曳山 大石町の鳳凰丸 弘化3年(1845年)制作 |
七番曳山 新町の飛龍 弘化3年(1846年)制作 |
八番曳山 本町の金獅子 弘化4年(1847年)制作 |
九番曳山 木綿町の武田信玄の兜 元治元年(1864年)制作 |
十番曳山 平野町の上杉謙信の兜 明治2年(1869年)制作 |
十一番曳山 米屋町の酒呑童子と源頼光の兜 明治2年(1869年) |
十二番曳山 京町の珠取獅子 明治8年(1875年)制作 |
十三番曳山 水主町の鯱 明治9年(1876年)制作 |
十四番曳山 江川町の七宝丸(蛇宝丸) 明治9年(1876年)制作 |
編集後記 |
名護屋城と唐津藩 唐津市街からバスで西へ国道204号を20数分進むと、朝市とイカの港町呼子(よぶこ)に着きます。呼子からさらに西へタクシーで10数分のところに、名護屋城址はあります。豊臣秀吉が朝鮮半島への出兵、すなわち文禄・慶長の役(1592年〜1598年)のベースキャンプ(前進根拠地)として、九州の諸大名を中心に動員をかけ、わずか8ヶ月の突貫工事で築かせたという城跡です。その名護屋城の普請役と後方兵站(へいたん)の責任者を務めた寺沢広高は、その功績によって1593年、秀吉から名護屋を含む上松浦郡一帯およそ8万3000石を与えられます。唐津藩の始まりです。 |
名護屋城址・大手門跡 |
名護屋城址・天守閣跡からみる壱岐水道 |
唐津十七町 広高は、慶長7年(1601年)から6年の歳月をかけて唐津城を築き、同時に城下町の町割りにも着手しました。1万石1町として、藩政中期には17に町割りされ、唐津十七町と称されました。広高は、城下町の発展のため町割内の町人や職人には税を免除し、経済活動を保護しました。港にも恵まれた唐津の町は、しだいに商業がさかんになり、江戸時代中期には商人や職人の町人の文化が栄え、唐津くんちという豪勢なお祭りを生み出すことになりました。 漆の一閑張 曳山は、各町の氏子が莫大な費用をつぎ込み、『漆の一閑張り』という技法で、2〜3年がかりで作ったと伝えられています。粘土で獅子頭や兜などの型を取り、その上に良質の和紙を200枚くらい張り重ねて厚みを出します。中の粘土を取り外して和紙の上を幾種類もの漆で塗り上げ、最後に金箔や銀箔を施して仕上げます。 島原の乱 関ヶ原の戦いで東軍についた寺沢広高は、戦後、徳川家康から天草一郡およそ4万石を加増され唐津藩の飛地とし、都合12万3000石を領する大名となりますが、これが二代目・堅高の悲劇を生むことになります。寛永14年(1637年)に島原に勃発した島原の乱は、天草にも飛火します。乱後、堅高は、島原の乱の責任を幕府からとがめられて領地を没収され、ほどなくその心労により自殺します。堅高に跡継ぎがなかったので寺沢家は改易となりました。 商人文化の繁栄と意気込み その後、唐津藩は、大久保家→松平(大給)家→土井家→水野家→小笠原家と、藩主家が中途半端に入れ替わっていきますが、そんな中で町人文化はしっかりと根づき、繁栄を続けていったのでした。一番曳山の赤獅子が奉納された文政2年(1819年)は、小笠原家のときでした。制作費用が一台、1億〜1.5億円もかかっているといわれる勇壮華麗な唐津曳山を目の当たりにすると商人文化の繁栄と意気込みを感ぜずにはいられません。そして、よく保存されてきたものだと思います。 |
旧唐津銀行本店、旧高取邸 明治時代以降、唐津は現在の市域内の各地で石炭が発見され、唐津炭田として第二次世界大戦後まで繁栄を続けますが、1960年代以降、エネルギー事情の変化により炭鉱はすべて閉山となりました。旧唐津銀行本店や旧高取邸に唐津炭田の隆盛が偲ばれます。 |
旧唐津銀行本店 |
旧唐津銀行本店は、東京駅や日本銀行を手がけた近代建築学の第一人者・辰野金吾(唐津出身)に師事した田中実が設計したもので、1912年(明治45年)築のヴィクトリア様式建築です。 旧高取邸は、炭鉱王として成功した高取伊好(たかとりこれよし)の旧宅で、唐津市北城内の海岸沿いに建っています。1998年(平成10年)国の重要文化財に指定。 |
旧高取邸(国の重要文化財) |
【参考】 |
説明文は、下記のサイトを参考にして書きました。 |
・曳山のはなし 古舘正右衛門著 → http://www.geocities.jp/tamatorijisi/syouemon.htm ・唐津観光協会ホームページ → http://www.karatsu-kankou.jp/index.html ・宮島醤油ホームページ(唐津くんちメイン) → http://www.miyajima-soy.co.jp/kunti/yama/yama.htm |
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