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旅行記 ・上甑島 − 鹿児島県薩摩川内市  2011.08
 かみこしきじま
上甑島
  島と島とを繋ぐユニークな地形・トンボロ
トンボロ(陸繋砂洲) 沿岸流と波の作用で海底の砂れきが海面上に現れた細長い地形をトンボロと呼びます。全長が南北に約1500m、最大幅1000m。この島と島をつなぐユニークな陸地の上に集落が形成され、里町(薩摩川内市里町)の中心になっています。
 トンボロの上に形成された集落。里町の中心になっています。
 
 串木野新港から高速船とフェリーがそれぞれ一日二往復運航されています。 
 
こだわりの焼酎屋、きびなご定食の店とあります。
特にきびなご漁が盛んで、きびなごの刺し身や塩焼きは絶品です。 また、『甑州』という焼酎は、他所では入手困難な焼酎になっています。甑島商船(九州商船と鹿児島県の薩摩川内市といちき串木野市の共同出資こ会社)が運営する『高速船シーホーク』(片道一律3,610円)と『フェリーニューこしき』(同2,240円)が、串木野新港(いちき串木野市)と各島間をそれぞれ一日二往復しています。
  甑島列島 
甑島(こしきじま)列島は、鹿児島県薩摩半島の約38km西方の東シナ海に浮かぶ列島で、北東から南西に連なる上甑島・中甑島・下甑島の主な3島と、付属するいくつかの島から構成されています。行政区は、薩摩川内市に属し、2005年の国勢調査によれば人口は6,206人(上甑島2,750人、中甑島347人、下甑島3,109人)。各地域の民宿で、新鮮な魚介類を味わうことができます。
津口番所跡の隣にあるストアー
 台風対策として、屋根を低くし玉石積みの石垣を備えた民家
 
 里武家屋敷跡
里港より徒歩で5分のところにある里武家屋敷跡
丸い石を丹念に積み上げた玉石垣はきれいに手入されていました。
いまは里小学校がある地頭仮屋跡
麓(ふもと)集落と呼ばれるミニ城下町が形成され、その中心に地頭の居館である地頭仮屋が置かれ、ここで外城の行政が行われました。地頭は寛永(1624年〜1645年)以降は鹿児島城下へ定住するようになりましたが、要衝地である長島、甑島は地頭の赴任が継続して行われました。
丸い石を丹念に積み上げた玉石垣の武家屋敷跡。江戸時代の郷士たちの家が建ち並んでいた当時の風情を今に伝えています。薩摩藩は、鶴丸城(鹿児島市)を本城とし、領地を外城(とじょう)とよばれる113の行政区画に分けて統治し、武士団を領地内に分散して統治に当たらせました。
新田神社の分神といわれる里八幡神社
ハイビスカスの大木がたくさんの花を咲かせていました。
明日はお盆の入りということもあってか、家族連れの旅行客(帰省客)を見かけました。
 
 カノコユリ
島内のあちこちで見られるカノコユリ
なかでも、上甑島と中甑島を繋ぐ鹿の子大橋付近が自生地として名高いです。また、島内の民家の石垣や生垣、花壇などに植えられています。甑島列島が属する薩摩川内市の市花になっています。
カノコユリ(鹿の子百合)は、6月末〜8月上旬に紅色の美しい花を咲かせる百合です。赤い点を散らしたような模様が、鹿の子絞りのように見えるところからその名があります。シーズンには甑島のいたるところがピンク色に染まり、甘い香りに包まれます。
 山を背にした民家の畑で撮影
 
 亀城跡
甑隼人の時代から明治の廃藩置県まで統治の本拠だった亀城跡
史跡亀城跡 亀城は、鶴城とあわせて亀鶴(きかく)城という。高所から見るとその形が、鶴と亀に似ているのでこの名がある。鶴城跡はこの地より南東約二百メートルの丘にあり「古城」ともいう。亀鶴城は、もと甑隼人の城であったといわれる。甑隼人は阿多隼人、大隅隼人などと共に早くから朝廷に仕え皇居の整備などにあたっていた。 鎌倉時代に、甑島は小川氏の所領となり十三代三百七十余年この亀城を本拠として治めた。小川氏は日野宰相宗頼の子孫で武蔵国多西郡小川郷(現在東京都あきる野市)より起こった豪族である。承久の変(1221年)に小川小太郎季能(ゆえよし)は、鎌倉方につき北条義時の軍に従い宇治川の戦いで手柄をたて、甑島地頭に任ぜられた。季能の子、小太郎季直(すえなお)が甑島に入り、ここを支配した。のち上甑島は塩田備前守にあずけて、小川氏は下甑手打に住いを移した。文禄4年(1611年)島主小川中務大輔有季(ありすえ)は田布施高橋(鹿児島県金峰町)へ移され、島津氏は木曽、酒匂両氏を代官として派遣した。更に慶長16年(1611年)本田伊賀守親政(ちかまさ)を移地頭に任じ、元和5年に来島させた。以来、亀城は明治の廃藩置県まで、二百六十余年にわたり、薩摩藩の外城制度の象徴的役割を果たしてきた。
 
島の風景
籾(もみ)を干す風景
水稲は早期栽培で、4〜5月に植え付けし、8〜9月に収穫します。田植えはお互いに加勢して一斉に行われています。観光面では、長目の浜(上甑島)や鹿島断崖、ナポレオン岩(いずれも下甑島)など景勝地が多く、また平成8年には上甑島に宿泊施設の甑島館がオープンするなど整備が進んでいます。
甑島の産業は、近海の好漁場に恵まれたブリやカツオなどの一本釣りやキビナゴ漁などの水産業が中心ですが、水稲やサツマ芋などの島野菜、果樹栽培などの農業が島の暮らしを支えており、また、自然放牧場などで黒毛和種牛の生産も行われています。どこの家でも狭い土地を利用して自給米を作っています。
道路のガードレールを使って稲の架け干し
隠山に向う途中の道路より湾を見下ろす
仏像や経文を隠したといわれる隠山
しかし、現在は、この隠山しか残っていません。仏像の安置されていた場所は、外界から隔たった山腹の鞍部で1アール程の苔むした石垣とうっ蒼たる樹木に囲まれしんしんとした霊気に満ちたところです。 という、教育委員会の説明板が山腹の道路わきにあり、”ここから300メートル近く上がる”とありました。その300メートルがとてもきついでした。
  隠山(隠れ念仏跡)
江戸時代、薩摩藩では一向宗(浄土真宗)の信仰を禁止し、各地に役人を派遣して厳しく取り締まりました。それでも、一向門徒たちは、山中のほら穴などに仏像や経文を隠し講をつくり密かにこれを拝んでいました。里村でもこような隠れ念仏の信仰の場所がいくつかあったらしいです。
隠山への入口付近から北方の海を眺める 
 甑四湖と長目の浜
淡水で海と色が異なる須口池。右手がトンボロ
須口池 海との境が比較的小粒な礫(れき)であるため海水が通りにくく、ほとんどど淡水でウナギやボラなどが生息する池とされています。浜堤は里町地域内の湾曲に富む海岸線の一部を形成おり、トンボロと相まって、絶妙な風景を作り出しています。
長目の浜展望所
長目の浜 上甑島有数のビュースポットが長目の浜です。ここでは、鍬崎池(上の写真左手前下)、続いて貝池そしてなまこ池と続く3つの池が4kmにも及ぶ細長い砂州がによって海隔てられています。 隣り合って並ぶ3つの池は、鍬崎池が淡水、貝池が海水と淡水の混じった汽水、なまこ池が海水と、それぞれ塩分濃度や湖面の水位、透明度が違い、棲息する生物も異なっています。
鍬崎池
鍬崎池 景勝地・長目の浜を構成する湖の一つ。淡水で、昔より体長2mもある大鰻が生息していると言われています。その他、鯉などが生息しています。
学術的にも貴重な湖である貝池
貝池 最大水深12mで、上層部が淡水下層部は海水という二重底をもつ湖で、水深5m付近の厚さ50cmほどの層には30億年前に出現した光合成細菌の一種『クロマチウム』が生息しています。世界でも見られるのはバルト海沿岸と貝池など3個所だけと言われる、学術的にも貴重な湖となっていて、保護活動や世界遺産登録を視野に入れた調査活動が行われている。
藩政時代に島津氏が移入したというなまこが生息するなまこ池
なまこ池 丸い小石で形成された砂州によって海から分離されていますが、石の隙間を通して海水が出入りしており、潮の満ち引きに合わせて湖面が0.2m程度上下します。海水に近い塩分を含んでおり、ボラ、スズキなど、海に住む魚や薩摩藩藩主島津氏が大村湾から移入したと伝えられるナマコが生息しています。
4kmにおよぶ砂州となまこ池
 
中甑港
 中甑島ではなく上甑島にあるのに、中甑港。漁港であり、フェリーや遊覧船の港でもあります。
かのこゆりのふるさとのモニュメント
天皇軍に属していた楠木正成、正行はその軍に殉じたのであるが、伝説によれば楠木氏の一族は難を逃れ中甑や下甑に入り、正行は金吾山に構えをなして徐々に天下を観望していたが、不幸にして正行は恨をのんで中甑に死没したと土地の人達は言い伝えている。
  楠木正行の墓
楠木正行(まさより)は、建武の新政の立役者として活躍した楠木正成(まさしげ)の嫡男で、11歳の時の父との別れ「桜井の別れ」(太平記)が知られています。1348年、四條畷の戦い(現在の大阪府四條畷市)で敗北し自害して果てたはずなのに、なぜか中甑金吾山の集合墓地のなかに墓があります。説明板に次のようにあります。
なぜだか楠木正行の墓が・・・
 中甑港に寄航中の『フェリーニューこしき』
 
 中甑島へ
甑島地名の発祥の地といわれる『甑大明神』(甑大大明神橋から撮影)
甑大明神 甑島列島の西海岸は、白亜紀から古代三紀に形成された地形がむき出しになっている断崖・奇岩が多く見られることで知られていて、周遊クルージングが観光化されています。上甑島と中甑島を繋ぐ、甑大明神橋にある奇岩にその雰囲気を伺うことができます。上の写真の鳥居が見えるところに、甑(米や豆などを蒸すのに用いた土器や道具)の形をした大岩があり、『甑大明神』はその岩自体を御神体とし信仰されています。『甑島』地名発祥の地といわれています。
上甑島から小さな島・中島を経て中甑島に至る『鹿の子大橋』
 
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