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法華寺(高山市) |
法華寺山門 |
高山市の古い町並み『さんまち』界隈から 国道158号線を東へ700〜800mほど上ると東山寺町の一角に着きます。南北に流れる江名子川の東、高山の 市街地を見下ろす小高い山の中腹に神社と寺院群が立ち並びます。 |
法華寺本堂 |
初代高山城主の金森長近が 城下町を整備する際に、京都の東山寺町にならって、町の東側の高台に寺院を建立、 周辺にあった寺院を移築させたのが東山寺町です。 |
法華寺本堂 |
その東山寺町の一角にある法華寺と天照寺(旧天性寺)は、 熊本藩初代藩主・加藤清正の嫡孫・加藤光正(光広ともいう)ゆかりの寺です。そのうち、法華寺は、 永禄元年(1558年)に開山した寺院で、飛騨で唯一の法華宗寺院です。 |
法華寺境内 |
寛永9年(1632年)、加藤光正が 当時の第三代高山城主・金森重頼に預けられることになりました。この時、加藤家が法華宗に 帰依していたことから、この法華寺が加藤家の菩提寺になりました。 |
法華寺境内(鐘楼) |
光正は翌年に19歳の若さで亡くなりますが、 死後、寺の裏山には墓が建てられ、また、重頼はその御霊を哀れみ、高山城の一部を移築して現在の本堂を 再建しました。そのため、本堂の外観は、書院造りの風格が感じられる造りになっています。 |
法華寺本堂・説明板 |
法華寺本堂 (県指定史跡) |
寛永9年(1632年)、九州肥後国から配流され高山の地で亡くなった加藤清正の孫光正の霊を哀れんだ金森重頼(3代目藩主)が、高山城内の建物を移してこの本堂を建立したという。宝暦年間の平面図が残されていたが、平成5年の修理時には内陣須弥壇脇の彫刻や厚鴨居に裏書が確認された。彫刻には工匠松田太右衛門、塗師は藤田宇兵衛とある。建物内部にはゆったりとした広縁があり、腰唐戸の障子がやわらかい感じを与えている。本堂の内陣には、正面の蟇股や欄間の花鳥彩色彫刻がみられ、桃山時代の様式を残している。外観は、間口が8間あって重量感に溢れ、書院造りの風格が一層漂うものである。 |
昭和45年8月11日指定 高山市教育委員会 |
法華寺・案内板 |
法常栄山 法華寺 (宗派 法華宗 本尊 十界互具本尊) |
新潟県三条市にある総本山本成寺の十一世日扇聖人は飛騨国府出身で飛騨に法華本門の道場なきを憂い、弟子日嚢を飛騨に入らせ、永禄元年(1558年)この寺の創始となった。寛永9年(1632年)加藤清正の孫光正が高山城主三代金森重頼にあずけられた。法華帰依の家門であった光正は、当山本堂の再建を念願していたが、寛永10年7月16日19歳で死去した。配流の地でさびしく亡くなった光正を哀れんだ金森氏は、彼の意志を継いで現本堂を造営した。文化財 ○本堂(県指定)○加藤光正の遺品(県指定)○加藤光正遺品(県指定)○加藤光正墓(市指定史跡)○加藤歩簫墓(県指定史跡) |
法華寺番神堂 |
法華寺番神堂 |
法華寺番神堂 (高山市指定文化財(建造物)。平成12年5月22日指定。) |
入母屋造りで、正面に唐破風が付く。内部は奥行1間の上段に五連の厨子が設けられ、庚申(こうしん)様、稲荷(いなり)、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、鬼子母神(きしぼじん)、加藤清正像などが祀られている。法華の三十番神(ばんしん)とは法華経の仏法や信者を守るため、五神は六日交代で三十日の番をする神々をいう。 |
法華寺番神堂 |
加藤光正墓 |
加藤光正の墓(法華寺の裏) |
天照寺本堂 |
法華寺の北隣にあるのが、加藤光正が閉居して 一年余りを過ごした天照寺(旧天性寺)。また、この寺は、元和4年(1618年)に徳川家康の六男で越後高田藩主・ 松平忠輝が高山に配流となり、8年間の歳月を過ごしたお寺でもあります。 |
飛騨高山天照寺YH(ユースホステル) |
平安時代の1182年に天台宗、天照皇寺として創建された寺で、 江戸時代に浄土宗へ改宗されたそうです。本尊の阿弥陀如来(市指定文化財)は12世紀後半の造仏で、 平安時代後期に活躍した仏師・定朝の作によるものだそうです。 |
天照寺本堂 |
現在は、お寺に併設された宿泊施設が ユースホステル(飛騨高山天照寺YH)になっています。日本文化を感じることのできる囲炉裏や中庭があり、 外国人観光客にも人気があるそうです。また、東山寺町随一の紅葉寺だそうです。 |
天照寺鐘楼 |
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