|
賢治の作品としては最初の文学碑ですが、有名な冒頭部分ではなく、『野原ノ松ノ』以下の後半部分が刻まれています。揮毫は生前より賢治を評価していた高村光太郎が当たりました。ただし、脱漏があることが後に判明し、1946年に戦時中から花巻に移住していた高村光太郎自身の手で追刻されています。詩碑の下には文圃堂版の全集や賢治の遺骨の一部も納められています。現在、花巻市で『賢治詩碑』というとこの碑のことを指し、バス停の名前にもなっています。1946年以降、毎年賢治の命日である9月21日の夜に、碑前で『賢治祭』が行われています。〜以上、フリー百科事典『ウィキペディア』より |
|
|
『雨ニモマケズ』の詩碑 |
|
宮沢賢治は1926年3月に花巻農学校を退職し、4月には宮沢家の別宅のあったこの場所(現・花巻市桜町)に移り、独居自炊で農耕生活をはじめ、『羅須地人協会』を開設して農民に化学・土壌等の講義をしました。『雨ニモイマケズ』の詩碑は、賢治の死去から3年後の1936年11月21日に、別宅(羅須地人協会)跡に建立されたものです。 |
|
高村光太郎の筆による『雨ニモマケズ』の詩碑(写真上) |
|
|
|