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旅行記 ・浜庄津町浜金屋町(肥前浜宿) − 佐賀県鹿島市  2013.01
はましょうづまちはまかなやまち
浜庄津町浜金屋町
(国の伝統的建造物群保存地区)
南舟津の茅葺町屋
有明海の最も奥まった西の海岸沿いに佐賀県鹿島市が位置しています。その鹿島市のJR九州・長崎線の肥前浜駅前に、『肥前浜宿』(ひぜん・はましゅく)と呼ばれる古い街並みが残る地区があります。浜川の河口につくられた在郷町(がいごうまち、下記備考を参照)でした。
南舟津の茅葺町屋
江戸時代には長崎街道の脇街道である多良海道(多良往還)の宿場町としても栄え、また有明海に臨む港町として栄え、明治以降も酒造業や水産加工業に支えられ、豊かな町並みがつくられてきました。人口も多く、江戸時代から『浜千軒』といわれてきたそうです。
南舟津の茅葺町屋(浜川から見る)
この肥前浜宿にある『浜中町八本木宿』と『浜庄津町浜金屋町』の2つの地区が、平成18年(2006年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。肥前浜宿は、多良岳山系の良質な水と佐賀平野の米に恵まれ、江戸時代より酒造りが盛んなところでした。
庄金の草葺町屋
浜川の左岸の多良海道沿いに開けた『浜中町八本木宿』地区に対して、右岸に開けた『浜庄津町浜金屋町』地区は、中世起源の漁師町・港町で、茅葺町家と桟瓦葺町家が混在する町並みは、『酒蔵通り』とは一味ちがった雰囲気があります。海に近い場所なのに茅葺屋根が並ぶのはユニークです。昔は漁村も茅葺作りだったのでしょうか。
 
 浜庄津町浜金屋町
『浜庄津町浜金屋町』保存地区が位置する浜川河口近くの右岸は、すでに中世から成立していた港町で、近世には鹿島藩(鹿島鍋島家)の外港として、商人や船乗り、鍛冶屋等が住み発展しました。町の中央を通る多良海道と小路が町の骨格を形成し、道沿いや敷地背後に水路が走っています。河港の在郷町としての地割をよく残し、茅葺や桟瓦葺の町家が建ち並ぶ、特色ある歴史的風致を今日によく伝えています。浜庄津町は、船頭をさす庄津、鍛冶屋をさす金屋が住み分けたことから通称『庄金地区』とも呼ばれています。『むつごろうの蒲焼』の看板を出す店(写真下)も珍しいです。
夷(恵比須)三郎の祠
町でよく見かける恵比須(えびす)像は鯛を抱えた恵比須様ですが、このような恵比須信仰は江戸時代の中ごろから盛んになりました。この恵比須様は佐賀県でも最も古いものの一つで、貞亨四年(1687年)に造られています。ここの恵比須様は文字だけで、『夷三郎(えびすさぶろう)』と彫ってあります。
恵比須三郎の祠(1687年)
肥前浜宿まちなみ案内図
 
2005年当時の佇まい 
庄金の草葺町庄金の草葺町屋
”庄金”は、江戸時代の庄津町と金屋町の頭文字を採った名前です。庄津は船頭、金屋は鍛冶屋のことで鍛冶屋などの職人や船頭などの住む町でした。いまでも草葺の町屋が残っています。
【備考】・在郷町(ざいごうまち)について
在郷町(ざいごうまち)は、日本の都市の形態のひとつ。日本において中世から近世の時代に、農村部などで商品生産の発展に伴って発生した町・集落。主要な街道・水運航路が通る農村においては、その街道沿いに形成されている場合もある。城郭や藩庁などを中心に栄えた城下町や陣屋町、宿場中心に形成された宿場町、寺社を中心に形成された門前町などと決定的に違うのは、町の中心となる施設(城郭・大きな宿場・有力寺社など)がないことで、前述の町などまで距離がある農村部において自然発生的にできたものである。城下町などと違い、商工業者のほかに農民が多く在住していることや、都市と農村の性格を併せ持つことも特徴である。 城下町などの町などに対し、「地方都市」的な位置づけである。こうした在郷町の発達には近世期の在方生業の変化があり、近世に在方では米麦栽培のほか養蚕、煙草など商品作物の生産、農閑期の行商や諸商職業の兼任など農間余業の発達による生業の多様化があり、在郷町はこうした生業の変化も要因のひとつとして成立したと考えられている。また下町と呼ばれる範疇に含まれるものもあり、現代において在郷町を起源とする地区の中には、現代の下町と呼べるような庶民的な町も多い。地方では、町場(まちば)に対して在郷(ざいごう)=いなかの意味で使われる場合がある。”在郷町 − Wikipedia”より転載
【参考サイト】
(1)特集 肥前浜宿/佐賀県鹿島市観光ポータルサイト
(2)在郷町 − Wikipedia
⇒ 浜中町八本木宿  ⇒ 肥前浜宿の町並み
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