船上から見た軍艦島。外観が軍艦『土佐』に似ていることからそう呼ばれるようになりました。 |
北東端にあった端島小中学校(右手前)。その左手は鉱員社宅 |
端島小中学校。岩壁に見えるのは積込桟橋橋台(魚釣りをしている人がいます)。 |
島の中央部。中央にドルフィン桟橋が見えます。船はここに接岸します。 |
南西部に位置する総合事務所(レンガ造り)。その後に30号棟アパート。 |
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軍艦島(ぐんかんじま) 長崎半島から西へ約4.5km、三菱石炭鉱業(株)の主力炭鉱があった高島から南西へ約2.5km(長崎港から南西に約19km)の沖合いに位置する端島(はしま)。端島は、南北が約480m、東西が約160mで、周囲約1,200m、面積63,000m2という小さな海底炭田(端島炭鉱)の島で、島全体が岸壁で囲まれ、高層の鉄筋アパートが建ち並ぶ外観が日本海軍の軍艦『土佐』(三菱重工業長崎造船所で建造された)に似ていることから『軍艦島』と呼ばれるようになりました。1974年(昭和49年)に端島炭鉱が閉山されると無人島になりました。島は三菱マテリアルが所有していましたが、2001年(平成13年)に高島町(当時)に無償譲渡され、市町村合併により長崎市に継承されて現在に至っています。建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていましたが、島の南部に整備された見学通路に限り、2009年(平成21年)4月から観光客が上陸・見学できるようになりました。2009年(平成21年)1月に世界遺産暫定リストに記載された『九州・山口の近代化産業遺産群』の構成資産の一つになっています(1)(2)。 |
軍艦島の位置(軍艦島パンフレット(長崎市発行)をコピー) |
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閉山当時の建物の配置図(軍艦島パンフレット(長崎市発行)をコピー、一部編集) |
軍艦島の歴史 1810年(文化7年)頃、端島で石炭が発見され、佐賀藩が小規模な採炭を行っていましたが、1890年(明治23年)に、端島が所有者であった旧鍋島藩深堀領主(鍋島孫六郎)から三菱合資会社へ譲渡されると、本格的海底炭坑として操業が開始されました。出炭量が増加するにつれ人口も増加し、狭い島で多くの人が生活するため1916年(大正5年)には日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅が建設され、最盛時(1958年(昭和33年)頃)には約5,300人もの人々が住み、人口密度は、当時の東京の9倍にも達しました。エネルギー革命により、エネルギーの需要が石炭から石油に移ったことで、出炭量も人口も徐々に減少し、1974年(昭和50年)1月に閉山し、同年4月に無人島になりました(1)(2)。 |
上陸が始まりました。岩山の山頂に見えるは幹部職員住宅(3号棟アパート) |
島の拡張 当初の端島は、草木の生えていない水成岩の瀬に過ぎない小さな島でしたが、採掘技術の発達とともに、周りを6回にわたって埋め立てる形で護岸堤防の拡張が繰り返され、今日見る島の形状になりました。もともとは現在の3分の1ほどの大きさだったそうです(1)。 |
幹部職員住宅(左)と貯炭ベルトコンベア支柱(中央)と端島小中学校(中央奥) |
幹部職員住宅(3号棟アパート) |
内風呂 高層アパートの中には売店や保育園、警察派出所、郵便局、パチンコ屋などが地下や屋上に設けられたものがいくつかありました。個別の浴室設備(内風呂)を備えていたのは、幹部職員住宅(3号棟アパート)のほか鉱長社宅の5号棟、職員用集会宿泊施設の7号棟と島内唯一の旅館・清風荘だけだったそうです(2)。 |
端島小中学校(中央奥)と貯炭ベルトコンベア支柱 |
貯炭ベルトコンベア 精炭(精選された石炭)は、ベルトコンベアによって貯炭場に蓄えられ、積込桟橋で石炭運搬船に積み込まれました。今はコンベアの支柱が残されています。 |
端島小中学校 |
端島小中学校 1893年(明治26年)、三菱社立の尋常小学校が岩礁の上に設立されましたが、1921年(大正10年)に町立となり、校舎は現在地に移設されました。1958年(昭和33年)に建設された現存の建物は7階建てで、1階から4階までが小学校、5階と7階が中学校、6階には講堂、図書室、音楽室、7階には理科室などの特別教室が設けられていました(1)。 |
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貯水槽。岩山の一番高い所に設置されています。 |
給水船・貯水槽 電気や水道の確保は、端島では切実な問題でした。湧き水が全くない島では、飲料水を確保するため、当初は海水を蒸留していましたが、のちに『水船』と呼ばれた給水船で運ばれるようになり、高台にある貯水槽に蓄えられ、数ヶ所の共同水栓から配給されるようになりました(1)(3)。 |
対岸の長崎半島から6.5kmの海底送水管が敷かれました。 |
海底送水管 真水が給水船で運ばれるようになりましたが、風呂の水は海水を沸かしたもので、上がり湯だけしか真水は使えませんでした。また、水船が3日でも欠航すると、真水の配水は飲み水、共同浴場の上がり湯、洗濯のすすぎ水などに制限されました。住民が多くなった第二次世界大戦以後は、生活用水確保が課題となったため、1956(昭和31年)に対岸の長崎半島(長崎市蚊焼町岳路)から島までの6.5kmの海底に、150mm鋼管を2系統敷設する工事が始まり、翌年に完成しました(3)。 |
第二竪坑坑口桟橋跡 |
第二竪坑坑口桟橋跡 海底炭鉱であった端島の採掘作業は、海面下1,000m以上の地点まで及びました。その坑内深部では、四方八方の広大な範囲に幾本もの水平の坑道が掘られていました。竪坑は、地表と坑内深部を結ぶ主要通路で、垂直に掘削されており、巻揚き機によって昇降するケージと呼ばれる鋼製のカゴで石炭や人員・資材を運搬していました。主力坑であった第二竪坑を含め、鉱山施設は現在ほとんど崩壊していますが、かろうじて第二竪坑へ行くために設けられた桟橋への昇降階段部分のみが残っています。 |
第二竪坑坑口桟橋跡(昇降階段部分) |
坑夫用共同浴場 無事昇坑を果たして安堵の表情を浮かべた坑夫たちは階段を降りると、総合事務所棟内にある共同浴場に入りました。真水を節約するため、入浴には、まず服や靴を着たまま入って全身に付いた炭を落とす海水風呂、つぎに服を脱いで身体の汚れを落とす海水風呂、そして最後に身体の塩分を落とすための真水を使った上がり湯の3つの段階があったそうです。 |
総合事務所。赤レンガがひときわ目立ちます。 |
総合事務所 赤レンガがひときわ目立つ総合事務所は、全島内に指令を出す、島の司令塔的存在で鉱山の中枢でした。会社の職員70〜80名が常駐したそうです。総合事務所のまわりには、会社事務所、会議室などの建物が有りましたが、現在ではそのほとんどが崩壊していまい、赤レンガのみが残っています。 |
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岩山の南端の麓に建つ30号棟アパート(中央)や仕上工場(左)など |
灯台 岩山南端の貯水槽の隣にある白亜の灯台は、端島炭鉱の閉山によって夜間の島の明かりが無くなったため、その翌年の1975年(昭和51年)に建てられたもので、正式名称は『肥前端島灯台』だそうです。現在の灯台は、1998年(平成10年)に強化プラスチック製で建て替えられた2代目だそうです(2)。 |
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仕上工場 |
島内には、炭鉱施設や住宅のほか、小中学校、店舗、寺院、映画館、理髪店、美容院、パチンコ屋、雀荘、スナックなどがありました。店は常設の店舗のほか、島外から行商人も多く訪れていたそうです。21号棟には警察派出所がありました。このように、島内においてほぼ完結した都市機能を有していますが、火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に建設されていました(2)。 |
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30号棟アパート(中央)と31号棟アパート(左手) |
高層アパート 1916年(大正5年)に建設された30号棟は日本初の鉄筋コンクリート造の高層アパートでした。30号棟を皮切りに、長屋を高層化したような日給社宅(16号棟〜20号棟、当時日給制だった鉱員が住んだ)など、次々に高層アパートが建設されました。端島で鉄筋コンクリート造の住宅が建設されたのは、狭い島内に多くの住人を住まわせるため建物を高層化する必要に迫られていたためであり、鉱長や幹部職員などのための高級住宅は木造だったそうです(2)。 |
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仕上工場(左手前) |
30号棟・31号棟アパート 1916年(大正5年)に建設された日本最古の鉄筋コンクリート造の高層アパートである30号棟は鉱員住宅として建てられ、当初は4階建てでしたが完成後まもなく7階建てに増築されました。内庭には吹き抜けの廊下と階段があり、地下には売店もありました。31号棟は、1957年(昭和32年)に建てられ、1階に郵便局や公衆電話、理美容院が、地下には共同浴場がありました(1)。 |
破壊が著しい南西端部の建物 |
プール 島の南西端にはプールがありました。1958年(昭和33年)に完成。それまでは、小中学校の前にありましたが、台風で大破したため、島の南西端に移転建設されたもので、25メートルプールと幼児用プールが併設されましたが、海水を使っていました。 |
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約50分間の上陸見学を終えて、船は軍艦島を後にしました。 |
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