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旅行記 ・ピカソ ゲルニカ − スペイン(12)  2011.07
     
     
『ゲルニカ』(Guernika)は、スペインの画家パブロ・ピカソがスペイン内戦中に空爆を受けた町ゲルニカを主題に描いた絵画です。モノクロームで描かれている縦3.5m、横7.8mの大作で、現在マドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されています。『ゲルニカ』の鑑賞とエピソード・裏話についてまとめてみました。
絵画・『ゲルニカ』
スペイン内戦の最中の1937年4月26日、スペイン北部・バスク州の小都市ゲルニカがフランコ将軍を支援するナチスによって空爆を受けました。史上初めての都市無差別空爆とも言われます。滞在中のパリでこの報を聞いたピカソは、かねて人民戦線政府より依頼されていた同年のパリ万国博覧会スペイン館の壁画として急遽ゲルニカを主題にこの作品に取り組み、6月4日には完成させます。
 
スペイン内戦はフランコ将軍の勝利により終結。この絵はロンドンなどを巡回したのちにヨーロッパの戦火を避け、1939年、米国に渡りニューヨーク近代美術館に預けられます。第二次世界大戦後もフランコ将軍の政権下にあったスペイン政府はこの絵の返還を求めますが、『スペインに自由が戻るまでこの絵を戻すことはない』とピカソは拒否しました。
 
ピカソは1973年にこの世を去ります。フランコ将軍も1975年に没し、政体の代わったスペインとニューヨーク近代美術館との間にこの絵の返還交渉が再び始まりました。1981年になってようやくスペインに返還され、現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されています。        以上、 ゲルニカ (絵画) - Wikipediaより
『ゲルニカ』(1937年、パブロ・ピカソ、350cm×780cm、ソフィア王妃芸術センター(マドリード)所蔵) 
  
鑑賞
上の方で電球が光っているのは、焼夷弾が炸裂しているの状況を象徴しています。死んだ子を抱き泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったようにいななく馬などが戦争の悲惨さを訴えています。
  
馬が剣で刺されているのは、民衆が犠牲になっていることを象徴しています。ゴヤ(フランシスコ・デ・ゴヤ)に傾倒していたピカソは、スペイン独立戦争における市民蜂起をテーマにして1814年にゴヤが制作した『1808年5月2日』および『1808年5月3日』にヒントを得て描いたといわれています。
 
左端に描かれた、死んだ子供を抱く母の絵は、ミケランジェロの『ピエタ』(処刑され十字架から降ろされた我が子イエスを抱く聖母の像。バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂にある)にヒントを得ているといわれています。
  
スペインを象徴する闘牛が黒色に塗られたのはスペインの日常が破壊されていることを暗示し、右端の女性が足折られているのも民衆の犠牲を意味しています。
  
平和を象徴する鳩が一部分黒く塗られているのは、平和が失われつつあることを暗示し、左下で倒れている兵士の剣が折れているのは、スペインの敗北を表し、しかし同時に手にしている花が、残された希望を表しています。
  
ナチスによるゲルニカの攻撃は、女性や子どもといった非戦闘員をも狙い撃ちする無差別空爆という戦略のもとに実行されました。戦争で犠牲になるのは、常に社会的弱者である。ピカソは、兵士、動物以外の人物はすべて女として描いています。
    
エピソード・裏話
スペインとニューヨーク近代美術館との間で『ゲルニカ』の返還交渉が始まったとき、絵の価格が問題になりましたが、ピカソが絵の具など画材の領収書を残していたので、それに基づいて価格が決められたそうです(1)
 
工業用絵具ペンキで描かれたので、後に傷みの要因となりましたが、工業用絵具ペンキは油彩よりも乾きが速く、作業効率も高かったため、大作ながら短時間(1ヶ月弱)で描き切っています。また、コストも安かったといわれます(2)
 
スペインに『ゲルニカ』が返還されてからは、旧フランコ派とともにバスク独立運動にからんだテロが懸念されました(2)。バスク独立運動とは、小都市ゲルニカがあるバスク人居住地域を一つの独立国家として分離させることを目標としている独立運動です。
 
当初は、プラダ美術館別館に展示されましたが、最初のころは機関銃で武装した兵士に守られての展示で、その後も一時は防弾ガラス越しの観賞でしたが、現在はソフィア王妃芸術センターにおいて、2mほどの距離から直に見ることができます(2)
  
但し、見学者がそれ以上絵に近づくとセンサーが作動してアラームが鳴るようになっています。セキュリティが厳しいのは、落書きを防止するためと、もう一つは政治的な背景があるといわれます。
 
ベトナム紛争末期の1974年に、米国にあったときテロにあい、赤いスプレーで落書きされました。幸いに油絵の表面にワニスがコーディングされていて容易に消すことができました。
 
政治的な背景として、バスク州ビスカヤ県の県都であるビルバオに出来たグッゲンハイム美術館と、現在常設されているマドリードのソフィア王妃芸術センターとの間で、『ゲルニカ』所蔵の論争が起こり、相互にその正当性を主張して決着が注目されている(2)状況があります。
 
『ゲルニカ』制作中、二人の愛人の取っ組み合いがあったといわれています。ピカソは当時、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係にありました。ピカソ芸術のよき理解者でもあった彼女は、『ゲルニカ』の制作過程を写真に写して残していますが、そのことに嫉妬心を抱いたもう一人の愛人フランソワーズ・ジローとドラ・マールが、ピカソが工業用のペンキまみれで『ゲルニカ』を描いている背後で、取っ組み合いを始めたというわけです。
  
この2人は『ゲルニカ』にも描かれており、右上の手を挙げて泣き叫ぶ女はドラ・マール、ランプを持ち覗き込むようにして絵の中心にある女がフランソワーズ・ジローだといわれています。ちなみに、左下に倒れている兵士はピカソ自身である(2)といわれます。
 
パリがドイツ軍に占領された時、ピカソのアトリエにドイツ軍将校が押し入り、『ゲルニカ』のコピーを手にして、『この絵を描いたのはあなたか!』と問い詰めると、『いや、あなたたちだ』と、ピカソは答えた(1)といわれます。
            
      
【参考にしたサイトなど】
(1) マドリードのソフィア王妃芸術センターを案内してくれたツアー旅行の現地
    ガイド(カルロスさん)の話し。
(2) ゲルニカ (絵画) - Wikipedia
     
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