その後とフェルナンド7世 |
スペイン独立戦争が勃発した後の1812年に『1812年憲法』が制定されていましたが、ナポレオンの撤退によって復位したフェルナンド7世はこの民主的近代改革を放棄し、絶対君主制を敷きます。
これに自由主義者たちが反発、ラファエル・デル・リエゴ・イ・ヌニェス大佐が率いる部隊が『1812年憲法』復活を求め、反乱を起こします。事態を収拾するために国王フェルナンド7世は『1812年憲法』の復活を承認し、1820年には、憲法復活を宣誓しました。いわゆる『スペイン立憲革命』です。
しかし、このような急進的な自由主義革命は神聖同盟加盟諸国と隣国フランスを刺激し、1823年フランス軍10万がピレネー山脈を越えて、進軍。フランス軍とスペイン革命軍との間で戦争が起こり、フランス軍が勝利するとフェルナンド7世が国王にみたび復位し、スペイン立憲革命は失敗に終わりました。
リエゴ・イ・ヌニェス大佐ら革命派の主だったものは、復位したフェルナンド7世により処刑され、3年間恐怖政治が続きました。その残虐さは王党派すら愛想を尽かすほど凄まじいものだったといわれます。
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ゴヤの真骨頂 |
画家が貴族や王室などのパトロンなしには生きて行けないという時代にあって、宮廷画家であったゴヤが『カルロス4世の家族』の絵に描き出したものは、愚鈍と揶揄された王、性悪で粗野な女と見られていた王妃、そして両親と母の愛人から除け者にされるという立場に追いやられ、恨みを抱きつつも自重せざるを得なかった皇太子など、カルロス4世王室の人々の偽らざる姿と人間の内面でした。
戦勝記念として制作された絵にしても、本来ならば描かれるのは戦場で華々しく活躍する、あるいは堂々と凱旋する王侯貴族の姿のはずですが、『1808年5月2日』に描かれたのは、祖国の独立のために武装蜂起する名もないマドリード市民の姿でした。『1808年5月2日』の絵は、王室がなすすべを持たない、いかに不甲斐ない存在だったかを如実に物語っているわけです。
1789年にカルロス4世の宮廷画家となり、43歳で念願の宮廷画家の仲間入りを果たしたゴヤでしたが、ほんの3年後に絶望へと暗転します。大病の後遺症で、聴覚を失うのです。今日ゴヤの代表作として知られる『カルロス4世の家族』、『着衣のマハ』、『裸のマハ』、『マドリード、1808年5月2日』、『マドリード、1808年5月3日』などはいずれも、ゴヤが聴力を失って以後の後半生に描かれたものです。
スペイン美術史上の巨匠といわれるディエゴ・ベラスケス(1599〜1660年)とともに、スペイン最大の画家と並び称されるゴヤ(出版される書籍類などはむしろゴヤの方が多い)の真骨頂は、厳格な眼を通じて得た偽らざる心情に忠実に従い愚直までに真実を描き切るというこの画家の姿勢だろうと思います。 |
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2つのマハの絵 |
『裸のマハ』と『着衣のマハ』は、1797〜1800年頃、ゴヤによって描かれた絵です。『裸のマハ』は、西洋美術で初めて実在の女性の陰毛を描いた作品といわれ、そのため、当時のスペインで問題になりました。この絵が誰の依頼によって描かれたかを明らかにするために、ゴヤは何度か裁判所に呼び出され裁判を受けましたが、結局、ゴヤが口を割ることはありませんでした。 |