♪恋のアランフェス
MIDIクラシックギター

       
      
旅行記 ・プラド美術館 ゴヤ − スペイン(11)  2011.07
  
  
プラド美術館は、スペインのマドリードにある、世界でも有数の規模と内容を誇る美術館です。15世紀以来の歴代のスペイン王家のコレクションを展示する美術館で、ディエゴ・ベラスケス、フランシスコ・デ・ゴヤ、エル・グレコ などのスペイン画家の絵画をはじめとして、今では約8000点もの作品を擁し、年間250万人もの人々が訪れています。ゴヤの絵を中心に鑑賞しました。
ゴヤ 
ゴヤ(フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス、1746〜1828年)はスペインの北東部の岩砂漠が広がるアラゴン地方に生まれました。父は鍍金師で、ゴヤは生計を助けるため11歳で父の仕事を手伝ったとされます。14歳の時から約4年間、地元の画家に師事して絵画の修行をしましたが、とくに才能が認められたということもなかったようです。
  
1774年、28歳のときマドリードへ出て、翌年から十数年間、王立タペストリー工場でカルトン(下絵)描きの仕事に携わります。タペストリーは壁の装飾用であり、携わったのは今日的な意味での芸術というより職人の仕事でした。
   
晴れてマドリードへ出たゴヤは、一方で上流階級の門をこじ開けようと貴族の肖像画を描きまくります。次第に王室に近づき、1789年にカルロス4世の宮廷画家となり、43歳で念願の宮廷画家の仲間入りを果たしました。1799年に宮廷の首席画家へ任命されると翌年の1800年から1年近くかけて、今日ゴヤの代表作となっている『カルロス4世の家族』を描きました。
 
『カルロス4世の家族』
『カルロス4世の家族』は、スペイン国王カルロス4世 (1748〜1819年、在位1788〜1808年3月19日)一家の集団肖像画であり、ゴヤはこの絵を完成させるために、当時王室一家が住んでいたアランフェス離宮(マドリードの南方約50km)に何度も通い、10点もの人物単体の肖像画を習作したといわれます。
 
本来は王が描かれるべき絵の中央に実質的な王室の支配者といわれた王妃マリア・ルイサ・デ・パルマがいかにも意地悪で狡賢そうな顔で描かれているこの絵は、カルロス4世一家の人々の人間の内面を恐ろしいほどに描き出した傑作だといわれています。
  
多くの人たち、特に画家のゴヤから、王を完全に支配する性悪で粗野な女と見られていた王妃マリア・ルイサは、16歳年下の首相マヌエル・デ・ゴドイと長年にわたり愛人関係にあり、二人の不倫関係は公然の秘密だったといわれます。マリア・ルイサはカルロス4世との間に14人の子をもうけていますが、絵の中で左手で手を引いている赤い服の男の子と右手でかばっている女の子は、実は寵愛のゴドイとの間に出来た子ではないかと思われています。 
  
一方、当のカルロス4世はといえば、素晴らしい体格と強靭な体力を受け継ぎましたが、知性の面では優れた君主だった父(カルロス3世)に似ず、多くの人から愚鈍と揶揄され、1788年に即位すると、真剣に取り組んだ仕事は狩りだったそうです。公務は王妃とお気に入りのゴドイに任せ、事実上王妃と執務室を自分のものにしていたドゴイに自分の生活全てまでをも預ける始末でした。
 
その王が、意思というものをまるで感じさせないような面持ちで王妃の脇に所在無げに佇み、そして、フェルナンド皇太子(後のフェルナンド7世)が、事実そうであったように、王妃から遠ざけられ左脇に立ち、鋭い猜疑的な視線を正面に向けています。
『カルロス4世の家族』(1800〜1801年、フランシスコ・デ・ゴヤ、280×336cm、プラド美術館所蔵) 
  
この絵が描かれたのは1801年のことです。その後、カルロス4世一家の人々は、まるでこの絵が予言しているかの様な運命をたどります。
  
カルロス4世在位中の1793年にフランス革命戦争(フランス革命後のフランスと反革命を標榜する対仏大同盟との一連の戦争)が勃発。スペインは対フランス側として参戦するも敗れると、フランスの衛星国として、トラファルガー海戦、ナポレオンの大陸封鎖令に参戦し、いずれも苦杯をなめさせられます。
  
そして、ナポレオンがスペインに軍を派兵し始めるなかで、スペインでは貴族たちによる政変が発生、カルロス4世は1808年3月19日に退位、ゴドイも失脚、代わってフェルナンド皇太子がフェルナンド7世として即位しました。しかし、それも束の間、ナポレオンは、自分の兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王ホセ1世としてスペイン王に就かせたのです。
 
カルロスはフランスに逃がれ、フランス皇帝から住まいを与えられて、残りの人生を妻のマリア・ルイサとゴドイに囲まれて過ごしたといわれます。1819年、ローマで死去、70歳でした。

  
『1808年5月2日』と『1808年5月3日』
しかし、スペイン人は、ナポレオンが押し付けた外国の傀儡国王は恥辱とみなし反発、なすすべを持たない不甲斐ない王室の動きに対し業を煮やしたマドリッド市民が蜂起し、これが全土へ広がり、いわゆる『スペイン独立戦争』が勃発しました。マドリード市民の武装蜂起の様子は、6年後にゴヤによって2つの連作『1808年5月2日』、『1808年5月3日』に描かれることになります。
 
ナポレオンは自ら兵を率いて介入しましたが、スペイン軍のゲリラ戦術とイギリス・ポルトガル軍を相手に泥沼にはまり込んでしまい、その後のナポレオンのロシア遠征の破滅的な失敗により、1814年にフランス勢力はスペインから駆逐され、フェルナンド7世が復位しました。ナポレオンが撤退すると、ゴヤは摂政政府に嘆願書を出し戦勝記念画の制作に取り掛かりました。そして描かれたのが2つの連作の絵です。
 
『1808年5月2日』は、ナポレオン率いるフランス軍(実態はエジプト人親衛隊、フランスはエジプト奴隷傭兵を使っていた)に対する民衆蜂起を描いた絵です。馬上でナイフを振りかざすエジプト人親衛隊。それに対して、銃を構え、今にも馬を突き刺さんとする市民。騎馬隊の馬に踏みつけにされる市民。落馬するエジプト人親衛隊。
 
『マドリード、1808年5月2日』(1814年、フランシスコ・デ・ゴヤ、266×345cm、プラド美術館所蔵)
    
この絵は、祖国のために立ち向うマドリッド市民の勇敢さを描きながらも、戦争という人間同士の争いの悲惨さ、愚かさを描き上げています。後年、ピカソは、スペイン内戦における無差別空爆を主題に、美術史上最高の反戦画といわれる『ゲルニカ』を制作しますが、ゴヤのこの『1808年5月2日』はそのモチーフの一つに用いられることになります。
  
勇敢に武装蜂起した市民たちでしたが、翌日には処刑台に立たされます。連作のもう一つの『1808年5月3日』は、前日の武装蜂起の参加者たちが処刑されるシーンを描き出した絵です。背後の暗闇に王宮が浮び上がる中で、明るく照らされた一人の男に処刑隊の銃弾が向けられ、いままさに引き金が引かれようとする緊迫した瞬間が描かれています。白い服を着た男が両手を大きく広げ、祖国の独立のためにいままさに死にゆかんとする姿は、十字架上のイエス・キリストをモデルにしたものだといわれています。
 『マドリード、1808年5月3日』(1814年、フランシスコ・デ・ゴヤ、266×345cm、プラド美術館所蔵)
その後とフェルナンド7世
スペイン独立戦争が勃発した後の1812年に『1812年憲法』が制定されていましたが、ナポレオンの撤退によって復位したフェルナンド7世はこの民主的近代改革を放棄し、絶対君主制を敷きます。
  
これに自由主義者たちが反発、ラファエル・デル・リエゴ・イ・ヌニェス大佐が率いる部隊が『1812年憲法』復活を求め、反乱を起こします。事態を収拾するために国王フェルナンド7世は『1812年憲法』の復活を承認し、1820年には、憲法復活を宣誓しました。いわゆる『スペイン立憲革命』です。
  
しかし、このような急進的な自由主義革命は神聖同盟加盟諸国と隣国フランスを刺激し、1823年フランス軍10万がピレネー山脈を越えて、進軍。フランス軍とスペイン革命軍との間で戦争が起こり、フランス軍が勝利するとフェルナンド7世が国王にみたび復位し、スペイン立憲革命は失敗に終わりました。
 
リエゴ・イ・ヌニェス大佐ら革命派の主だったものは、復位したフェルナンド7世により処刑され、3年間恐怖政治が続きました。その残虐さは王党派すら愛想を尽かすほど凄まじいものだったといわれます。

  
ゴヤの真骨頂
画家が貴族や王室などのパトロンなしには生きて行けないという時代にあって、宮廷画家であったゴヤが『カルロス4世の家族』の絵に描き出したものは、愚鈍と揶揄された王、性悪で粗野な女と見られていた王妃、そして両親と母の愛人から除け者にされるという立場に追いやられ、恨みを抱きつつも自重せざるを得なかった皇太子など、カルロス4世王室の人々の偽らざる姿と人間の内面でした。
  
戦勝記念として制作された絵にしても、本来ならば描かれるのは戦場で華々しく活躍する、あるいは堂々と凱旋する王侯貴族の姿のはずですが、『1808年5月2日』に描かれたのは、祖国の独立のために武装蜂起する名もないマドリード市民の姿でした。『1808年5月2日』の絵は、王室がなすすべを持たない、いかに不甲斐ない存在だったかを如実に物語っているわけです。
  
1789年にカルロス4世の宮廷画家となり、43歳で念願の宮廷画家の仲間入りを果たしたゴヤでしたが、ほんの3年後に絶望へと暗転します。大病の後遺症で、聴覚を失うのです。今日ゴヤの代表作として知られる『カルロス4世の家族』、『着衣のマハ』、『裸のマハ』、『マドリード、1808年5月2日』、『マドリード、1808年5月3日』などはいずれも、ゴヤが聴力を失って以後の後半生に描かれたものです。
  
スペイン美術史上の巨匠といわれるディエゴ・ベラスケス(1599〜1660年)とともに、スペイン最大の画家と並び称されるゴヤ(出版される書籍類などはむしろゴヤの方が多い)の真骨頂は、厳格な眼を通じて得た偽らざる心情に忠実に従い愚直までに真実を描き切るというこの画家の姿勢だろうと思います。
 
2つのマハの絵
『裸のマハ』と『着衣のマハ』は、1797〜1800年頃、ゴヤによって描かれた絵です。『裸のマハ』は、西洋美術で初めて実在の女性の陰毛を描いた作品といわれ、そのため、当時のスペインで問題になりました。この絵が誰の依頼によって描かれたかを明らかにするために、ゴヤは何度か裁判所に呼び出され裁判を受けましたが、結局、ゴヤが口を割ることはありませんでした。
 『裸のマハ』(1797〜1800年頃、フランシスコ・デ・ゴヤ、97×190cm、プラド美術館所蔵)
『裸のマハ』『着衣のマハ』の2点ともに、首相であったマヌエル・デ・ゴドイの邸宅から見つかっているため、ゴドイの依頼を受けて描かれたものだといわれています。王妃の愛人でありながら、ある時は公然と愛妾をもち、浮気も日常茶飯事だったゴドイ。
 
ゴドイは私室に愛人のペピータの裸体画を飾ろうと考えました。陰毛の描かれた裸体絵は人目にはばかれるというので、裸と着衣の2つの絵を描かせました。着衣の絵の下に裸体の絵を重ねて飾っておき、紐を引くと裸のほうが現れる仕掛けにしました。部屋に自分一人のときは、紐を引いて愛人の裸体画を楽しむのです。
 
絵をよく見ると、首のつながりが不自然に感じられませんか。裸体画を着衣画の下に重ねて隠したとしても、描かれているのが愛人だと分かる絵を飾るわけにはいかないので、顔は別の女性のものを描かせてカムフラージュしたというのです。このようにして、首相ゴドイは愛人の首から下の裸体画を楽しんだのでした(以上、現地ガイドのカルロスさんの話しから))。
 『マドリード、1808年5月3日』(1814年、ゴヤ、266×345cm、プラド美術館所蔵)
   
『黒い絵』
73歳になった1819年、ゴヤはマドリード郊外に『聾者(ろうしゃ)の家』と通称される別荘を購入して隠棲します。そして、1820年から1823年にかけて、あろうことかこの自宅のサロンやダイニングルームの壁一面に、暗く恐ろしい14枚の絵を描きました。この14枚の作品群は、黒をモチーフとした暗い絵が多いため、今日『黒い絵』と通称され、14枚ともプラド美術館に所蔵さています。
 
『我が子を食らうサトゥルヌス』(1819〜1823年)
フランシスコ・デ・ゴヤ、146×83cm、プラド美術館所蔵
 
14点の作品群の中でよく知られているのが『我が子を食らうサトゥルヌス』です。ローマ神話に登場するサトゥルヌスが将来、自分の子に殺されるという予言に恐れを抱き、5人の子を次々に呑み込んでいったという伝承をモチーフにして描かれた絵で、ゴヤの狂気を物語っています。
  
ゴヤが狂気に取り付かれた理由には諸説あるようですが、一つには聾を患いそして晩年の大病(梅毒とも、絵の具に含まれていた鉛による中毒ともいわれる)によるものと思われています。社会的には、スペイン立憲革命の失敗とフランスによるスペイン侵略とスペイン王朝の反動の時期でした。
 
宮廷画家でありながら自由主義者だったゴヤは、当時スペインで始まった自由主義者弾圧を避けて1824年、78歳の時にフランスに亡命。1828年、亡命先のボルドーにおいて82年の波乱に満ちた生涯を閉じました。
    
『黒い絵』は、別荘を買い取ったベルギーの銀行家によって1837年のパリ万博に出展されましたが、暗い絵だったので一枚も売れませんでした。そこで、プラド美術館に寄付され、現在に至っているそうです。
 
マドリード『プラド美術館』と『ゴヤ自画像』(1815年、46×35cm、王立サン・フェルナンド美術アカデミー所蔵)
         
【参考サイト】
Wikipedia(ウィキペディア)の『フランシスコ・デ・ゴヤ』『カルロス4世 (スペイン王)』『裸のマハ』『フェルナンド7世』『黒い絵』の各ページのほか、下記のサイトを参考にしました。
(1)フランシスコ・デ・ゴヤ-1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘
(2)ゴヤについて (湯川カナの、今夜も夜霧がエスパーニャ)
(3)芸術への誘い2 (Jスパ!スペインとフラメンコの情報サイト)
     
あなたは累計
人目の訪問者です。
 

Copyright(C) WaShimo All Rights Reserved.