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旅行記 ・合元寺(赤壁寺)− 大分県中津市  2014.01.01
ごうがんじ
合元寺
(赤壁寺)
赤壁がひときわ目を引く合元寺
赤壁の由来 1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州征伐における功労者として、豊前国の6郡およそ12万石を賜った黒田官兵衛(孝高)は、領内の平定おいて、城井谷(きいだに、現在の福岡県築上郡築上町)を本拠地とする城井城主・宇都宮鎮房(しげふさ)(城井鎮房)の抵抗に手こずります。
合元寺は浄土宗西山派のお寺です
そこでは官兵衛は一計を案じ、嫡子の長政が鎮房の13歳になる娘・鶴姫を嫁にし、宇都宮氏の旧領は安堵するという条件で和睦を提示、鎮房もこれを了承します。しかし、1588年(天正16年)4月20日、婚姻の宴(うたげ)に招かれた鎮房は中津城内で謀殺されます。
合元寺(正面から見る)
そして、従臣たちが待機していた合元寺にも刺客が差し向けられ、従臣たちはことごとく斬り殺されて全滅しました。この時、寺の壁は返り血を浴びて真っ赤に染まり、その血痕は何度拭き取っても消えることがなかったことから、現在も合元寺の壁は赤く塗られ、『赤壁寺』の別名で中津の名所になっています。
赤壁 合元寺の説明板
赤壁 合元寺(ごうがんじ) 通称「赤壁」といわれるこの寺は、浄土宗西山派。開山空誉上人は、天正15年(1587年)黒田孝高(如水、黒田官兵衛)に従って姫路から中津に来錫した。その後、天正17年4月、孝高が前領主、宇都宮鎮房(しげふさ)を謀略結婚により中津城内に誘殺したとき、その従臣らが中津城を脱出し、この寺を拠点として奮戦し最期をとげた。以来門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、遂に赤色に塗られるようになった。当時の激戦の様子は現在も庫裏(くり)の大黒柱に刃痕が点々と残されている。また、戦死した宇都宮家の家臣は合葬し、寺内の延命地蔵菩薩堂に祀り菩提を弔った。その空誉上人は、宇都宮鎮房の庶子であったといわれ、文武の道に秀で世人の崇敬が篤かったため、後事をおそれ、慶長16年、黒田長政に福岡城で誘殺された。という哀史を秘めた寺である。寺内には、三浦梅園、倉成龍渚の師、儒学者藤田敬所(藤貞一)の墓がある。後のお堂は経蔵である。中津市教育委員会 中津の郷土史を語る会
お願い地蔵
お願い地蔵 合元寺の境内の『お願い地蔵』は別名を『三願成就の地蔵尊』といい、3つの願い事を聞き届けてくれるといわれています。(どうも、これは風説?のようですが)この町に住み、長崎へ遊学することが決まった福沢諭吉は、このお地蔵さまにお参りして学業成就を祈ったそうです。
こちらは、お願い地蔵の前に安置された6地蔵
         
 黒田官兵衛と宇都宮鎮房     中津城を訪ねて
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