♪シチリニアーノ(バッハ)
Piano1001



旅行記 ・祇王寺 − 京都市  2008.09
祇王寺(ぎおうじ)
本尊大日如来、清盛公、祇王、祇女、母刀自、仏御前の木像が安置されている祇王寺本堂。
苔庭から本堂へのアプローチ
 
         
  平家物語・『祇王』
 
平氏全盛の頃、都に聞こえた白拍子(しらびょうし、平安時代に流行した歌舞を演じる遊女)の上手に祇王(ぎおう)と祇女(ぎにょ)という姉妹がありました。二人の母親の名は刀自(とじ)。近江の国は野洲江辺庄の生まれで父九郎時定は、江辺庄の庄司でしたが罪があって北陸に流されたので、母とともに都に出て、白拍子となっていました。
 
その一家に途方もない幸運が舞い込んきます。姉の祇王が清盛に寵愛されるところとなったのです。母親には立派な家が与えられ、妹の祇女も有名になり、一家は安穏に暮らしていました。ところが、ここに加賀の出身で仏(ほとけ)御前と呼ばれる白拍子の上手が現われ、清盛の館に行き、舞をお目にかけたいと申し出ます。
 
           
祇王寺(尼寺)
 
ニ尊院から奥嵯峨野方向へ向ってしばらく行った小倉山山麓の奥まったところ、小さな尼寺・祇王寺は、周囲を竹林に囲まれひっそりと佇んでいました。この地は、かつて法然上人の弟子念仏房良鎮(りょうちん)が創建した往生院があったところ。往生院は江戸末期まで存在していたらしく、明治初年になって廃寺となりました。これを惜しんだ旧地頭大覚寺門跡楠玉諦師が再建を計画していたとき、別荘の一棟を寄付したのが、あの南禅寺・水路閣、琵琶湖疎水計画を実行に移した、当時の京都府知事・北垣国道氏でした。
 
平家物語で語られている白拍子・祇王の悲恋を知った北垣知事は、祇王を偲んで明治28年、嵯峨にあった別荘の一棟を寄付、これを本堂にして冨岡鉄斎らによりささやかな尼寺が作られ、祇王寺とされました。

影が虹の色に現われるといわれる吉野窓
表門(写真上)は普段は閉じられているので、左手奥の脇門から入ります。
苔庭の柔らかい緑に心が癒されます
 
この清盛の無神経な仕打ちに嘆き悲しんだ祇王と妹の祇女、そして母・自刀は髪を剃り、嵯峨の山里の今祇王寺のある地に世を捨て、仏門に入ったのでした。
 
時が経ち、秋のある夜のこと、祇王らが住む庵の竹の網戸をほとほとたたく者があります。出て見ると、思いもかけぬ仏御前でした。仏御前は、いずれは我が身も捨てられる身、許されるなら、一緒に念仏を唱えて極楽浄土を願いたいと申し入れます。仏御前はこのとき17歳でした。4人は一緒に籠って朝夕、仏前に香華を供え、みな往生の本懐をとげたといわれます。 
 
『神だか仏だか知らぬが、祗王がすでにいるのに叶うまじぞ、追い返せ』と言って門前払いした清盛でしたが、仏御前を不憫(ふびん)に思った祇王がやさしくとりなしたので、呼び入れて今様を歌わせてみたところ、見事な歌と艶やかな舞いに清盛はたちまち心を奪われてしまいます。昨日までの寵愛はどこえやら、あまりにも突然の清盛の心変わりに驚き、涙ながらに祇王は屋敷から去って行きました。翌年春のある日、清盛は『仏御前が退屈しているので、舞を舞って慰めよ』という使者を祇王へよこします。もとより出向く気のなかった祇王でしたが、清盛の権勢と母の哀願に抗しきれず、館に行って一舞いして帰ってきました。
 
静寂なまま時間が流れ行く祇王寺
左の宝筺印塔が祇王、祇女、刀自の墓。右の五輪塔が平清盛の供養塔。いずれも鎌倉時代の作。
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