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月見坂沿いに林立するの杉の大木 |
武蔵坊弁慶らの勇戦も空しく、敗れた義経は自害し、31歳の生涯を閉じました。義経の首は鎌倉へ送られましたが、それでも頼朝は自ら兵を率いて東北へ進攻しました。その理由は、奥州はかつて源氏の累代が支配しようとしてできなかった『意趣のこる国』だったからでした。泰衡は、怒涛のように進軍してくる鎌倉の軍勢から逃れようと、平泉を放棄し、現在の秋田県内で家臣の裏切りにあい、非業の死を遂げ、同年奥州藤原氏は滅亡しました。 |
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源義経と平泉 約100年に及ぶ繁栄をきわめた平泉でしたが、12世紀の終わりになると、京都の伝統的権力と、鎌倉の源頼朝の勢力、そして平泉が、それぞれ相対し厳しい状況になってきます。そこに、源平の戦い、一の谷や屋島の合戦で活躍した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびてきました。まもなく、義経を保護した3代目秀衡が病死すると、つぎの4代目泰衡(やすひら)は、頼朝の圧力に耐えかね、文治5年(1189年)4月、義経の住いとしていた衣川館(ころもがわのたち、現在の平泉町高館)を急襲しました。 |
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