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旅行記 ・中尊寺 − 岩手県西磐井郡平泉町  2013.04
中尊寺
金色堂新覆堂
金色堂(こんじきどう) 中尊寺金色堂は、平安時代後期の天治元年(1124年)に奥州藤原氏初代藤原清衡(きよひら)によって上棟された仏堂で、平等院鳳凰堂と共に平安時代の代表的な浄土教建築物として国宝に指定されています。平面の一辺が5.5mの、堂の内外に金箔を押してある『皆金色(かいこんじき)』の阿弥陀堂で、堂全体があたかも一つの美術工芸品の感じを呈しています(屋根の部分は解体修理の際に金箔の痕跡が発見できなかったために箔補てんは見送られました)。
経蔵(きょうぞう)
仏像は、須弥壇(しゅみだん、仏壇のこと)の上にご本尊阿弥陀如来、その前に観音菩薩と勢至(せいし)菩薩、左右に3体ずつ地蔵菩薩が一列に並び、最前列には持国天(じこくてん)と増長天(ぞうちょうてん)が配置されています。孔雀がデザインされた中央の須弥壇の中には、奥州藤原氏の初代清衡(きよひら)、二代基衡(もとひら)、三代秀衡(ひでひら)の遺体(いずれもミイラ化)と四代泰衡(やすひら)の首級が安置されています。
金色堂旧覆堂と松尾芭蕉像
金色堂新覆堂(こんじきどうしんおおいどう) 金色堂は、昭和37年(1962年)から同43年(1968年)まで足かけ7年に及ぶ解体修理(昭和の大修理)が行われ、堂は新しい覆堂に入れられ保護されています。覆堂の中は永久保存のため、空調設備などの保存環境が整い、金色堂はガラススクリーンで覆われ、防湿・防虫・防塵の対策が施されています。
安政4年(1857年)の『湯守』佐勘を再現したジオラマ
金色堂旧覆堂(こんじきどうきゅうおおいどう) 金色堂は建立当初(1124年)は屋外に建っていたが、建立の数十年後には建物を風雨から守るための「霧よけ」のような施設が造られ、やがて正応元年(1288年)鎌倉幕府によって外側からすっぽり包む形で覆堂(さやどう)が建設されました。これが、金色堂旧覆堂で、松尾芭蕉をはじめとする文人墨客、あるいは伊達政宗といった歴上の人物は、薄暗いこの堂内に入り金色堂を参拝したわけです。
白山神社能舞台への入口
経蔵(きょうぞう) 金色堂新覆堂の隣にある間口3間、屋根は宝形、金属板葺きの建物。『中尊寺建立供養願文』によれば、当初は『2階瓦葺』でしたが、建武4年(1337年)の火災で上層部を焼失したと伝えられており、おそらくは古材をもって再建されたものであろうと考えられています。ご本尊騎師文殊菩薩(重文)と三方の経棚に納められていた紺紙金字一切経(国宝)は、宝物館『讃衡蔵』に移され、新たな騎師文殊菩薩が安置されています。
弁財天堂
讃衡蔵(さんこうぞう) 讃衡蔵は中尊寺に伝わる文化財・宝物を永く後世に伝える宝物館として建設され、平成12年(2000年)に新築されたました。館名の讃衡蔵は『奥州藤原三代(清衡・基衡・秀衡の衡)の偉業を讃(たた)える宝蔵』という意味だそうです。現存する、3,000点以上の国宝・重要文化財のほとんどがここに収蔵されており、仏像・経典・奥州藤原氏の副葬品など、重要な文化財を拝観することができます(本ページに讃衡蔵の写真の掲載はありません)
阿弥陀堂と後方に鐘楼
弁財天堂と阿弥陀堂 弁財天堂は金色堂新覆堂のちょうど向い側にる茅葺の寄棟造りの屋根で間口3間の建物です。弁財天を祀っている場所にふさわしく廻りを池で囲まれた小島の上に建立されています。阿弥陀堂は、弁財天堂の隣にあって阿弥陀如来をご本尊とします。竹林を背にして宝形造りの屋根が見事です。
鐘楼(しょうろう)
カタクリの花 カタクリの花を一つ見かけました。中部地方以北に多く分布し、四国と九州では少なく珍しかったので撮りました。早春に10 cm程の花茎を伸ばし、薄紫から桃色の花を先端に一つ下向きに咲かせる。かつては、文字通り、鱗茎から片栗粉をつくっていましたが、現在は、ジャガイモやサツマイモから精製したデンプンが代用されています。
 
鐘楼(しょうろう) 康永2年(1343年)に鋳造された梵鐘(ぼんしょう、寺院のつり鐘)が納められています。この梵鐘には、建武4年(1337年)の火災によって多くの堂塔が焼失したという内容の銘文があり、奥州藤原氏滅亡後の中尊寺の歴史を知る上で貴重な資料となっています。大晦日の『除夜の鐘』として何度も全国に放送されました名鐘です。しかし、材質の純度が高く柔らかかったためか、撞座(つきざ)は窪(くぼ)んで、今この鐘が撞かれることはほとんどありません。
deカタクリの花
不動堂
不動堂 本堂から金色堂に向かう途中にある不動堂は、中尊寺の祈祷道場です。毎月28日が不動尊の縁日で護摩が焚かれます。本尊の不動明王は、右手に宝剣(剣)を持ち、どんな邪悪をも切って破るが、左手の羂索(ロープ)は救いを求める人を搦めてすくい上げてくださる、そういう姿を示しているそうです。
峯薬師堂
峯薬師堂(みねやくしどう) 不動堂の向かいにあってご本尊は薬師如来。その薬師如来像は金箔で覆われていて綺麗です。そしてちょっと変わっているのがご利益。目にご利益があるということで、全国的にも珍しい『目の御守』や”めめ”と書いた『目の絵馬』が売られています。
中尊寺本堂
奥州藤原氏と中尊寺 中尊寺は天台宗東北大本山の寺院で、嘉祥3年( 850年)、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれ、その後、奥州藤原氏初代・藤原清衡(きよひら)によって大規模な堂塔の造営が行われました。清衡の建立目的は、東北地方で続いた戦乱で亡くなった人々の霊を敵味方の別なく慰め、みちのくといわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものだったそうです。
本坊表門(中尊寺本堂前にある薬医門形式の門)
長治2年(1105年)に中尊寺の造営に着手、大治元年(1126年)に落慶(完成を祝う催し)の大法要が行われました。この落慶大法要で清衡が読み上げた『落慶供養願文』には、官軍(朝廷軍)や蝦夷を問わず、また人命だけでなく獣や鳥など犠牲になったすべての霊を慰め、極楽浄土に導きたいと記されているそうです。平泉はその後、2代目基衡、3代目秀衡により、浄土思想に基づいた都市づくりが続けられ、その結果、毛越寺や無量光院などの大伽藍、仏塔、庭園などが整然と造られ、平安京に次ぐ規模だったといわれます。
東物見
東物見 月見坂をゆっくりと登っていく途中にある展望台が『東物見』です。そこから北の方角を望む一帯は衣川古戦場と呼ばれ、古来幾多の合戦が行われた場所です。左(西)から右(東)に衣川が流れ、南北にJR東北本線と国道4号線バイパスが通っています。そして右(東)に見える川が北上川で、さらにその右に束稲山(たばしねやま)が見えます。かつて、西行法師、芭蕉など、いかに多くの文人墨客がこの山河を眺めたことでしょうか。
弁慶堂
弁慶堂 弁慶堂は参道(月見坂)沿いにある建物で、案内板につぎのようにあります。『この堂は通称弁慶堂という文政9年(1826年)の再建である。藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した傍らに義経公と弁慶の木像を安置す 弁慶像は文治5年(1189年)4月、高館落城と共に主君のため最期まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿なり 更に宝物を陳列 国宝の磬及安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈(おい)がある代表的鎌倉彫である。』
月見坂沿いに林立するの杉の大木
武蔵坊弁慶らの勇戦も空しく、敗れた義経は自害し、31歳の生涯を閉じました。義経の首は鎌倉へ送られましたが、それでも頼朝は自ら兵を率いて東北へ進攻しました。その理由は、奥州はかつて源氏の累代が支配しようとしてできなかった『意趣のこる国』だったからでした。泰衡は、怒涛のように進軍してくる鎌倉の軍勢から逃れようと、平泉を放棄し、現在の秋田県内で家臣の裏切りにあい、非業の死を遂げ、同年奥州藤原氏は滅亡しました。
 
源義経と平泉 約100年に及ぶ繁栄をきわめた平泉でしたが、12世紀の終わりになると、京都の伝統的権力と、鎌倉の源頼朝の勢力、そして平泉が、それぞれ相対し厳しい状況になってきます。そこに、源平の戦い、一の谷や屋島の合戦で活躍した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびてきました。まもなく、義経を保護した3代目秀衡が病死すると、つぎの4代目泰衡(やすひら)は、頼朝の圧力に耐えかね、文治5年(1189年)4月、義経の住いとしていた衣川館(ころもがわのたち、現在の平泉町高館)を急襲しました。
牛若丸(義経) 〜 平泉レストハウスにて
【編集後記】
源義経が平泉に自害し、奥州藤原氏が滅亡して 500年目にあたる元禄2年(1689年)、松尾芭蕉は門人の曽良と2人、『奥の細道』の旅に出ます。芭蕉46才、曽良41才の春です。江戸を発ってから44日後の5月13日、細道のはて平泉を訪れた芭蕉は、まず義経公の居館があったと伝えられる高館の丘陵にのぼります。丘の頂きに忽然とあらわれるのは束稲山(たばしねやま)のふもとに悠然と横たわる北上川と、それに合する衣川。そこには往時の栄華はなく、旧跡は田野となってひろがっているばかりです。
  
    夏草や兵どもが夢の跡
  
『国破れて山河あり、城春にして草木深し』という杜甫の句を思い起こしながら芭蕉はしばらく高館に笠を下ろします。続いて中尊寺を訪れた芭蕉は、かねてより伝え聞いていた金色堂に参詣します。鎌倉北条氏によって建てられたといわれる覆堂の中で、朽ち果てた金色堂はかろうじて光を投げかけます
  
    五月雨の降残してや光堂
  
金色堂を光堂と称したのも、仏と人との間に介在する光と、その光の彼方にある盛衰の歴史に、芭蕉のまなざしが向けられていたからに相違ありません(関山中尊寺公式ホームページ、中尊寺の歴史『松尾芭蕉と中尊寺』より)。
【参考サイト】
(1)中尊寺金色堂 − Wikipedia
(2)関山中尊寺公式ホームページ
(3)『中尊寺を歩く』(中尊寺発行、平成20年11月第3刷)
⇒ ・レポート 奥州藤原氏の歴史
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