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旅行記 ・秋保温泉 − 宮城県仙台市秋保町  2013.04
あきうおんせん
秋保温泉
名取川の南岸に温泉街が広がります。
秋保温泉 東北自動車道の仙台南ICより車で16分、仙台市街中心から西南西へ10数kmにところに位置する秋保温泉(あきうおんせん)は、仙台都心からも近いため、宿泊のみならず、日帰り入浴にも利用されている温泉で、同じ宮城県の鳴子温泉、福島県の飯坂温泉とともに奥州三名湯といわれます。
秋保温泉街(湯本地区)/Wikipedia(作者:Mutimaro)より
東西に長い秋保盆地に名取川が形成した河岸段丘の段丘面上に温泉街が広がり、現在16 館(秋保温泉旅館組合加盟)の温泉旅館・ホテルがありまる。温泉街付近では、段丘崖と名取川により磊々峡(らいらいきょう)と呼ばれる渓谷が続きます。
いよいよ本格的な春の到来です。
天皇はその喜びを歌に詠みました(な鳥のみゆ=名取の御湯)。以後、秋保温泉は皇室の御料温泉の一つとして位置づけられ『御湯』の称号を賜り、別所温泉(信濃御湯)、野沢温泉(犬養御湯)(あるいはいわき湯本温泉(三函御湯))と共に日本三御湯と称せられるようになった。『名取の御湯』は、『拾遺集』、『大和物語』などにも歌われています。
 
開湯時期は不明ですが、古墳時代にはすでに存在したともいわれます。秋保温泉が歴史に登場するのは、第29代欽明天皇の代です。欽明天皇在位中(531〜539年)に小瘡(こがさ、皮膚病)に感染し、八方手を尽くして治療を行ったものの一向に治らなかったですが、秋保温泉の湯を搬送させ沐浴したところ数日で全快したとされています。
  
    覚束な雲の上まで見てしかな
            鳥のみゆけば跡はかもなし
denn田園農村の雰囲気も楽しめます。
ホテル佐勘
天承千年宿 佐勘
ホテル佐勘 中世以来秋保に土着して温泉を管理していたのが佐藤家で、江戸時代初頭には仙台藩から『湯守(ゆもり)役』を任命されました。湯守は、温泉を管理し、宿屋を営業して入浴客の二様に備えるとともに、彼らから一定の湯銭(入湯料)を徴収し、その一部を御役代(運上金)として藩に上納するのを主な努めとしていました(現在のホテル佐勘の祖、佐藤家の当主は代々、佐藤勘三郎を名乗り、現在第34代目)。
安政4年(1857年)の『湯守』佐勘を再現したジオラマ
江戸時代初期までは、秋保温泉の源泉は一つで入浴場も一箇所のみで、この入浴場の周りに宿泊所が設けられていました。当初、この宿泊所も佐藤家だけが管理していたが、寛永2年(1625年)に岩沼屋が、また元禄年間には水戸屋が、佐藤家と縁を結ぶ形で旅籠を開設します。武家はもちろん庶民の利用も活発となり、広く親しまれる湯治場の一つとして賑わうようになりました。
家宝の『聖火』
家宝の『聖火』の由来 
文禄2年(1593年)大火に見舞われた祖先が再度の火難を恐れ紀州(和歌山県)高野山に祈願し、『貧女の一灯』といわれるお灯明の火を火縄に移し48日間に亘る道中苦心の末火を絶やすことなく持ち帰り以後『家宝の聖火』として一日も絶えることなく燃え続け今日にいたっております。この母屋は仙台藩伊達公より下賜されたもので、当館では三百年前から行事として毎月一日『水こぼしの朔日の祭り』を行っております。 〜説明文より
 
らいらいきょう
磊々峡
覗橋(のぞきばし)にある磊々峡入口
磊々峡(らいらいきょう) 名取川が秋保石の大地を侵食して作った奇岩が並ぶ峡谷で、覗橋の上下約1kmにおいて、両岸の秋保石を浸食しながら流れる水が、急流となったり深い淵となったりしていて、変化に富んだ峡谷の風景を楽しめます。磊々峡の名は、昭和6年(1931年)、夏目漱石の門人でドイツ文学者の小宮豊隆が名付けました。
深い淵となって奇岩が並びます。
【参考サイト】
(1)秋保温泉 − Wikipedia
(2)宮城県秋保|秋保温泉旅館組合公式HP
(3)仙台 秋保温泉 伝承千年の宿 佐勘 公式ホームページ
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