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旅行記 ・秋月を訪ねて − 福岡県朝倉市  2013.11
秋月
− 国の重要伝統的建造物群保存地区 −
町全体が国の重要伝統的建造物群保存区に指定されいる秋月
秋月藩 南北には福岡県の中央部にあって、東西にはその東端部に位置する朝倉市の秋月地区は、『筑前の小京都』と呼ばれる観光地で、町全体が国の重要伝統的建造物群保存区に指定されています。鎌倉時代以来、秋月氏によってその根拠地とされてきましたが、秋月氏は豊臣秀吉の九州征伐によって日向高鍋に移封されます。江戸時代に入り、関ヶ原の戦功により筑前一国52万3千石を与えられ福岡藩を興した黒田長政がの遺言によって、三男の長興(ながおき)に分知されたのが秋月藩5万石です。
眼鏡橋
眼鏡橋は秋月の南の玄関口に架かっています。
眼鏡橋 7代藩主黒田長堅(ながかた)が18歳で若死にし、断絶の危機を迎えたとき、福岡藩本藩は、秋月藩を本藩に吸収しようと動きますが、秋月藩は幕府老中に働きかけて、福岡藩に代って長崎警備を務めるという条件で藩の継続にこぎつけました。その頃、野鳥川にかかるこの橋は木でできた橋でした。筑前秋月と筑後・豊前を結ぶ橋で人馬の往来によっても損傷も著しく、大洪水時には流されていました。長崎で眼鏡橋を見た8代藩主黒田長舒(ながのぶ)は、長崎の石橋と同じものに架け直したいと熱望しました。
200年余の歴史が刻まれています。
その頃は藩財政も厳しくなっていましたが、長舒はついに架橋建設を決断しました。長崎から石工を招いて石橋は完成しますが、不幸にも竣工を目前にして橋は崩壊し、病床にあった長舒は、目鏡橋の完成を見ることなく43歳で逝去しました。しかし、崩壊から3年後の文化7年(1810年)9代藩主長韶の時、悲願の目鏡橋が美しいアーチを描いてその姿を現しました。
秋月のランドマーク的存在として観光名所の一つになっています。
ひろきゅうくずほんぽ
廣久葛本舗
廣久葛本舗(十代目高木久助)の店舗
廣久葛本舗 文政2年(1819年)創業で現在で十代目高木久助は、眼鏡橋から国道322号を東へ300mぐらい行った国道沿いにあります。広い敷地を構え、裏を流れる野鳥川に沿って白塀が長く続いています。店内には、創業当時頃の柱や階段が残されていて老舗の雰囲気が漂っています。
文政2年(1819年)創業
葛湯、本葛、本葛きり、ごまどうふ、葛餅、葛葉茶、葛そうめんなどの葛製品が販売されており、創業当時の看板などが飾られた静かな雰囲気の中で、葛きりぜんざい、抹茶セット、葛もちなどの葛スイーツが頂けるようになっています。初代久助が登場する葉室麟著の小説『秋月記』が置かれていました(写真上)。
創業当時の頃を彷彿とさせる帳場
秋月葛 秋月藩中興の祖と讃えられる8代藩主長舒は、叔父上杉鷹山を範として諸般の振興を図り、学問を奨励し藩校稽古館を開き、領内の治水や水運に力をそそぎ、殖産興業として、葛・水苔・茶・桑・楮・櫨・木蝋・製紙・養蚕・びん付油などの特産品の開発製造を奨励しました。
静かな雰囲気の中で葛スイーツが頂けます
特に、山野に自する寒根葛(かんねかずら)の根を水でさらしてつくる葛(くず)は、廣久本葛の歴代の高木久助の努力によって秋月藩の将軍家献上物となり、江戸でも高い評価を得、秋月を代表する特産品として全国に広まりました。現在でも、秋月葛は奈良の吉野葛と並んで品質の良さに定評があります。
筑前秋月名産・本葛きり
葛について 葛(クズ)は、マメ科クズ属のつる性の多年草であり、万葉の昔から秋の七草の一つに数えられています。和名は、かつて大和国(現:奈良県)吉野川(紀の川)上流の国栖(くず)が葛粉の産地であったことに由来します。古来から大きく肥大した塊根に含まれるデンプンをとり、葛粉として利用されてきました。
本葛の原料−寒根葛(かんねかずら)の根
葛粉を湯で溶かしたものを葛湯と言い、熱を加えて溶かしたものは固まると透明もしくは半透明になり、葛切りや葛餅などの和菓子材料や料理のとろみ付けに古くから用いられている。根を乾燥させた葛根(かっこん)は、発汗作用・鎮痛作用があるとされ、漢方方剤の葛根湯などの原料にされています(以上、クズ - Wikipediaを参考)
お土産に買って帰った葛餅
寅さんロケ地
『男はつらいよ』のロケも行なわれた廣久葛本舗の真裏の風景
男はつらいよ 寅次郎紙風船 第28作(1981年公開)、マドンナ・音無美紀子、ゲスト・岸本加世子、小沢昭一、ロケ地 大分県夜明、福岡県秋月、静岡県焼津。ふとしたキッカケで、寅次郎はフーテンの娘愛子(岸本加世子)と知り合い、一緒に旅をする。その途中、病に臥しているテキヤ仲間常三郎(小沢昭一)を見舞った寅次郎は、思いがけない相談を持ちかけられる。自分にもしものことがあったら女房光枝(音無美紀子)の事を頼むというのだ。間もなく常三郎は亡くなる。ほどなくして、光枝は東京へ。再会した寅次郎はこの若く美しい未亡人と所帯を持とうと決心。就職活動さえ始めるのであった(男はつらいよ 寅次郎紙風船 - Wikipediaより)
秋月の乱出陣地
秋月党の本陣跡(西福寺跡)への案内板
秋月党の乱 明治新政府における文治派と武断派の抗争は西郷隆盛の下野によって終始符うったかに見えたが、このことは各地に反乱や反政府活動となって爆発しこれらの動きと呼応して肥後の神風連、長門の前原派、筑前の秋月党は三角同盟を結び、政府攻撃により君側の奸を除こうとした。明治九年十月二十五日、秋月党のそうし二百五十五名は今村百八郎、宮崎車之助らを盟主に仰ぎ西福寺を本陣として決起した。一行は小倉方面に向かって行動し近代装備の政府軍と相対したが、利あらず、豊津の白兵戦で壊滅し、残った者は自害又は逮捕され、斬罪、徒刑等に処せられた。勝てば官軍の世とは云え、至誠憂国の士が戦場を熱血で染め屍を荒野にさらした日本の夜明の一幕は、秋月党悲史として今なお多くの人々の胸中に息づいている(現地の案内文を転載)
長生寺
右手の鐘楼が特徴的な長生寺の山門
長生寺(曹洞宗医王山長生寺) 慶長5年(1600年)長崎の豪商「末次興膳善入」が85歳の記念に建立した寺です。その秋葉堂に秋月藩おかかえ絵師・斉藤秋圃(さいとうしゅうほ)が描いた天井絵があります。寛政2年(1790年)、エドワード・ジェンナーよりも6年早く、天然痘の種痘法の実用化に成功した秋月藩藩医・緒方春朔(おがたしゅんさく)の墓や 秋月の乱の指導者、今村百八朗や宮崎車之助三兄弟の墓があります。
長生寺に至る静寂な小道
古心寺
黒田家菩提寺である古心寺
古心寺(臨済宗大徳寺派古心寺) 秋月藩初代藩主黒田長興が、父で福岡藩本藩52万石の初代藩主であった黒田長政の菩提を弔うため正保4年(1647年)に建立した黒田家菩提寺です。黒田長政をはじめ、黒田家12代にわたる藩主と正室・側室や子女など累代の廟所でもあります。わが国最後の仇討ちを実行した臼井六郎の墓もあります。
緒方春朔顕彰の碑
杉の馬場の入口に建てられている『緒方春朔顕彰の碑』
緒方春朔顕彰の碑 秋月藩藩医 緒方春朔(おがたしゅんさく、1748〜1810年)は中国医書『医宗金鑑』種痘に注目し日夜研究に没頭した。寛政2年(1710年)鼻早種法という人痘種痘を完成させた時、上秋月の大庄屋天野甚左衛門より我が二児に試みをと申し出あり、春朔はこの二児に実施し我が国で初めて人痘種痘に成功した。ジェンナーの牛痘種痘発明より六年前のことである。日本初の種痘書『種痘必順辨』を著し、広く民衆に施し、多大の成果を収め、我が国天然痘予防の先駆者として不滅の業績を残した。2010年10月建立。(社)朝倉医師会、(社)甘木朝倉法人会(緒方春朔顕彰の碑より転載)
秋月美術館
重厚な佇まいをみせる『秋月美術館』
秋月美術館 杉の馬場右側にあり、財団法人秋月美術館が)運営する美術館。福岡藩御用窯高取焼の名品や古伊万里や中国の陶磁器などを展示しています。
杉の馬場と稽古館跡
秋月のメインストリート『杉の馬場』の案内標識
杉の馬場 この桜の並木道を杉の馬場という。むかしこの辺に杉の大木があったためにその名ありといわれる。桜並木となったのは明治38年(1905年)、日露戦争戦勝記念の遺産である。この道は城跡に通じる。ここはそのむかし藩主のお成り道。そしてまた藩士たちの登城道。時には馬術の稽古も行なわれた。当時両側には土塀をめぐらしたいかめしい門構えの武家屋敷が並んでいた。いうなれば秋月城下のメインストリート。藩学稽古館は、この石垣の上にあったここは藩士たちの文武修業の大道」。安永4年(1775年)創設、明治4年(1871年)廃藩ともに閉鎖される。その間原古処・吉田平陽ら学者、教育者、武芸者たちが輩出した。ここの景観は四季を通じて佳。中でも花の季節が一ばんよい。花の4月には毎年春祭りも催される(現地案内板より転載)
秋月郷土館
門越しに武家屋敷(戸波半九郎邸)を見る秋月郷土館
秋月郷土館 旧藩士の邸宅(戸波半九郎邸)と藩校・稽古館跡を利用した郷土美術館と歴史資料館です。黒田藩ゆかりの遺品(刀剣や甲冑・文書)などのほか、ルノワール・ピカソ・上村松園・下村観山・横山大寒などの近代有名画家の他、秋月出身者の作品なども展示されています。戸波家は初代秋月藩主黒田長興公に供して秋月入りした戸波六兵衛を祖とし、馬廻組知行300石を拝領し、代々秋月藩の要職にありました。戸波半九郎は秋月の乱のときに自刃し、その後この屋敷は秋月藩主黒田家に譲られ別邸として用いられ、昭和40年(1965年)に秋月郷土館開設にあたり黒田家の遺品と共に寄贈されました。
杉の馬場と秋月郷土館
瓦坂
秋月城の正門に至る瓦坂
瓦坂 秋月城の正門に至る坂を瓦坂といい、坂には土砂の流れを防ぐため瓦を縦に並べて敷き詰められています(写真下)。坂を上って御館正門(大手門・黒門)に至ります。現在の黒門は移築されて瓦坂から少し離れたところにありますが、当時は瓦坂の奥に黒門がありました。
文字通り、瓦を縦に並べた坂です。
秋月城長屋門
秋月城の面影を伝えている秋月城長屋門
秋月城長屋門 この門は、秋月藩主黒田家の居城である秋月城の裏手門として使用されていたもので、老朽化に伴い昭和62年(1987年)から3年間、保存修復工事及び発掘調査が実施されました。 その結果、北棟のさらに北側に古い礎石が発見され、原形に近い形(北六間、南七間)での復元がされました。秋月城内で唯一現地に残る建物であり、秋月城の面影を最もよく伝えています。門として現在の場所に移された。まさにこの門は、中世以来の秋月の歴史を見つめてきている。
黒門
中世以来の秋月の歴史を見つめてきた『黒門』
秋月城本門(黒門) この門は、2回移築されている。もとは秋月氏の本城である古処山城(こしょさんじょう)の搦手(からめて)門で、それが秋月藩の成立後(1623年)、秋月藩の大手門として、現在の秋月中学校前の瓦坂の奥に移されたといわれている。さらに明治13年(1880年)、垂裕(すいよう)神社の門として現在の場所に移された。まさにこの門は、中世以来の秋月の歴史を見つめてきている(以上、現地案内より)。紅葉の時季にはアマチュアカメラマンでごった返します。
貝原東軒(益軒夫人)生地
貝原益軒のよきパートナーだったと言われ東軒の生誕の地
貝原益軒と東軒 貝原益軒(かいばら えきけん)は、寛永7年(1630年)福岡藩士の五男として生まれました。18歳で福岡藩に仕えましたが、2代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送るものの再出仕。それから85歳の長寿を全うするまで、60部270余巻の書物を著し、その著述は儒学、本草学、医学、地理、歴史など諸分野に及び、まさに近世日本の万能の天才でした。その夫人は、秋月藩郡奉行江崎広道の娘のお初(のちの東軒(とうけん))で、17歳のとき、39歳の益軒と結婚。親子ほど年が離れていた益軒と東軒は、終生夫婦円満で、和歌にひいでて、書も達者だった東軒は、益軒の日記の代筆をしたり、草稿の清書をするなど、よきパートナーだったと言われます。
コスモスの風景
秋月の小さなカフェ『Soo-Sai』さんにて
春は桜、秋はコスモス、晩秋は紅葉が綺麗という秋月。訪れた11月上旬の連休の日にはコスモスは盛りを過ぎていますが、2011年11月にオープンという秋月の小さなカフェ『Soo-Sai』の花壇には、今が盛りとばかりにコスモスが咲いていました。
いかにもコスモスが似合う秋月の風景
 秋月城下町
      
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