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旅行記 ・鶴ヶ城(若松城) − 福島県会津若松市 2011.02.18
鶴ヶ城(若松城)
幕末当時の赤瓦葺が復元されたばかりの鶴ヶ城天守閣
空高く翼を広げたような天守閣の形から
『鶴ケ城』と呼ばれ親しまれている若松城は、戊辰戦役で1ケ月も続いた籠城戦に耐えたことで
知られている難攻不落の名城でした。
2001年(平成13年)に復元された干飯櫓と南走長屋
また、開城の1ヶ月前、城外に出撃していた
白虎隊の少年たちが、城付近の侍屋敷の火災を天守閣の炎上と見誤り、
飯盛山にて自刃した悲劇はあまりにも有名です。
蒲生の居間跡と表御座跡
戊辰戦役後、取り壊しとなりましたが、
会津市民の要望などもあって、1965年(昭和40年)に今の
天守閣が復元されました。
鶴の姿になぞらえた鶴ヶ城。冬こそ、本当の姿を見せてくれるといわれます。
2001年(平成13年)に本丸内の干飯櫓(ほしいやぐら)と
南走長屋が復元されました。さらに、2010年(平成22年)に天守の屋根を、黒色の瓦葺から解体する以前の
赤瓦葺に復元する工事が始まり2011年3月に完成します。
本丸跡内の休憩場(手前)と茶室麟閣の遠望
茶室麟閣(りんかく)
天正19年、茶道の祖・千利休は、豊臣秀吉の怒りに触れ、
死を命じられました。その時の会津領主・蒲生氏郷が、利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、
その子 少庵を会津にかくまい徳川家康とともに千家復興を秀吉に願い出ました。結果、少庵は京都に帰って
千家を再興し、宗左、宗室、宗守の3人の孫によって、表、裏、武者小路の三千家が興され、
今日の茶道の基礎が築かれました。
千利休の子・少庵ゆかりの茶室麟閣(りんかく)
この少庵が会津にかくまわれている間、蒲生氏郷(がもううじさと)の
為に造ったと伝えられています。江戸時代の初期から中期にかけて、現在の様式に改められたと
考えられる茶室です。戊辰戦争の後、城下へ移築されていましたが、
平成2年に建造当初の地に移築・復元されました。

(以上、現地案内板から)
茶室麟閣隣の奥まったところにある荒城の月碑。
荒城の月碑
名曲『荒城の月』が鶴ヶ城と青葉城をモチーフに
作詞されたことは土井晩翠氏を招いた、音楽祭であきらかになった。
時は昭和21年のことである。
土井晩翠氏直筆による荒城の月の歌詞。
翌年、有志により詩碑建設会が設立され、
同年6月5日土井晩翠夫妻を招いた盛大な除幕式が行われた。この詩碑には、晩翠氏直筆に
よる荒城の月1番〜4番までの歌詞が記されている。

(以上、現地案内板から)
鶴ヶ城の本丸北の太鼓門脇にある鶴ヶ城稲荷神社
稲荷神社
鶴ヶ城内には、本丸北の太鼓門脇に稲荷神社があります。
葦名氏7代直盛が鎌倉から稲荷神社を持ってきたのが始まりとされます。戊辰戦争で会津が
敗戦し、その後、城の建物がすべて取り壊されることになり、稲荷神社は、現在の馬場町に移されました。
従って、本当の鶴ヶ城稲荷は馬場町にあり、鶴ヶ城内にあるこの稲荷神社は、城に稲荷神社が
無くなったので、明治時代に笠間稲荷から分社して建てられたものだそうです。
V字型が綺麗な武者走り
武者走り
この石垣は、鶴ヶ城の大手門の渡り櫓(やぐら)などへ
簡単に『昇り』『降り』ができるように造られています。V字型に造られており
『武者走り』とも呼ばれる鶴ヶ城の石垣の特色の一つです。また、地表面での占有面積が少なくてすみ、
石積みについての当時の知恵がうかがえます。
(現地案内板より)
鶴ヶ城歴代の城主家紋を貼り付けた案内板
鶴ヶ城(若松城)は、1384年(至徳元年)、葦名(あしな)家が
築いた東黒川館を前身に持ち、黒川城と名をあらためたのちに、伊達、蒲生、上杉、加藤といった
名だたる戦国大名が次々に居城としました。
蒲生時代の表門
小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が、会津を託したのが蒲生氏郷でした。
氏郷は、1593年(文禄2年)に甲州流の縄張(曲輪や堀、門、虎口等の配置)を用いて郭を築き、
七層の天守閣をもつ若松城を築城しました。
太鼓門跡から天守を望む
空高く翼を広げたような天守閣の形から『鶴ケ城』と
親しまれ、その後、1639年(寛永16年)、加藤明成によって五層の天守閣に
改築されて難攻不落の名城となりました。
大手門の堅固な石垣(桝形)
桝形(ますがた)
ここに見られる石垣は今から約370年前の加藤時代に整備された石垣です。
若松城の大手門として堅固な石垣に囲まれ(桝形)、さらに右に曲がった場所には内部を見透かされないように
門(北出丸大手門)がありました。この桝形は敵を三方から攻撃できる利点がありました。
北出丸と追手前西堀
鶴ヶ城(若松城)の歴史
鶴ヶ城(若松城)は、1384年(至徳元年)、葦名(あしな)家が築いた東黒川館を前身に持ち、黒川城と名をあらためたのちに、伊達、蒲生、上杉、加藤といった名だたる戦国大名が次々に居城としました。小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が、会津を託したのが蒲生氏郷(がもううじさと)でした。氏郷は、1593年(文禄2年)に甲州流の縄張(曲輪や堀、門、虎口等の配置)を用いて郭を築き、七層の天守閣をもつ若松城を築城しました。空高く翼を広げたような天守閣の形から『鶴ケ城』と親しまれ、その後、1639年(寛永16年)、加藤明成によって五層の天守閣に改築されて難攻不落の名城となりました。1868年(慶応4年)の戊辰戦役で、1ケ月も続いた籠城戦も耐えたことで知られています。また、開城の1ヶ月前、城外に出撃していた白虎隊の少年たちが、城付近の侍屋敷の火災を天守閣の炎上と見誤り、飯盛山にて自刃した悲劇はあまりにも有名です。その城も、1874年(明治7年) 取り壊しとなりましたが、会津市民の要望などもあって、1965年(昭和40年)に今の天守閣が復元されました。2001年(平成13年)に本丸内の干飯櫓(ほしいやぐら)と南走長屋が復元されています。2010年(平成22年)より天守の屋根を、黒色の瓦葺から解体する以前の赤瓦葺に復元する工事が実施され、2011年(平成23年)3月下旬には全て工事が終了します。
 
編集後記】
鹿児島空港発のミステリーツアーで鶴ヶ城を訪ねたのは、2011年2月18日のことでした。天守閣が幕末当時の赤瓦葺に復元され、3月末のお披露目を待つばかりの鶴ヶ城は雪を頂き、まさに鶴になぞらえた姿をみせてくれていました。旅行から帰って早速旅行記を作成、このページも3月上旬には出来上がっていたのですが、3月11日、東北地方太平洋沖地震が起きました。鶴ヶ城は、地震後、施設の安全点検のため臨時休園されていましたが、3月27日(日)にオープンすることになりました。そこで、本ページをアップロードすることにしました。新たに生まれ変わった鶴ヶ城が、会津地方の人々、東北の人々の励みになって欲しいと思います。
 
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