レポート  ・鈴木重成 〜 乱後の天草   
− 鈴木重成 〜 乱後の天草 −
天草市本渡(旧本渡市)に、鈴木神社という神社があります。祭神は、本渡の宗社の他、天草全土30余ヶ所に分祀(ぶんし)され、「鈴木さま」として天草の人々に今でも親しまれているそうです。
  
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寛永14年10月25日(1637年12月11日)、島原の農村で勃発した一揆はただちに天草に飛び火し、本渡において天草四郎の率いるキリシタン一揆勢と幕府軍(唐津勢)が激突、大激戦を繰り広げます。この激戦において富岡城番代・三宅藤兵衛を討ち取った一揆勢は、勢いを得て富岡城を攻撃しますが、堅固な城は、二の丸は落とせたものの本丸は落城できす、一揆勢は撤退し、乗船して島原へ渡ります。そして、原城における3ヶ月に及ぶ篭城となったものの、寛永15年2月28日(1638年4月12日)、乱は終結します。
 
この天草・島原の乱で、 3万7000人が死亡し、そのうち天草では人口が 2万人から約8000人に激減したといわれます。荒れ果て焦土と化した天草を復興されるため、天領となった天草の初代代官とし幕府から任命されたのが鈴木重成(しげなり)でした。
 
重成は、徳川家康ゆかりの三河武士で、天草・島原の乱に幕府連合軍の砲術隊長として参戦しました。老中松平信綱の信任が篤く、乱後も天草の実態調査を命じられ、その見識と手腕がかわれ、初代代官に任命されたのです。
 
そもそも天草の悲劇は、関ヶ原の戦いの後、支配がキリシタン大名の小西行長から、肥前唐津藩(現在の佐賀県唐津市)の寺沢広高の支配下に移ったことが、その始まりだといわれます。
 
天草の実際の石高は二万一千石ほどしかないのに、寺沢検地によって四万二千石とされてしまったのです。天草の農民は収穫のほとんどを徴収されるという状況になり、農民の困窮ぶりは極まりないものとなりました。
 
鈴木重成は着任すると天草を10組86の村に分割して、組に大庄屋、村に庄屋を置いて行政の浸透を図ったほか、乱によって人口が激減した天草に移住民の誘致を図りました。また、荒れ果てすさんだ島民の心を仏教への帰衣によって癒すために、当時高僧と知られていた実兄の正三(しょうさん)を迎え、島内の各地に神社や寺を次々に建立していきました。
 
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しかし、石高が四万二千石とされたままではどうしようもありません。重成は詳細な検地を行い、石高半減を幕府に申し出ますが、石高の変更は前例がなくまた幕府の威信もあって受け入れられることはありませんでした。1653年、鈴木重成は真情を綴った建白書を残し、江戸の自邸において切腹して果てたといわれています。
 
幕府ではお家断絶などの重罪にしないで病死扱いにして、子の重祐に家督を継がせ、養子の重辰(しげとき)(正三の実子)を二代目代官に任じるという異例の処置を取りました。鈴木重辰は、石高半減の訴えを繰り返し行い、1659年、天草の石高はついに二万一千石になり、石高半減が認められたのです。
 
その後、島民あげて鈴木三氏(鈴木重成、重辰、正三)の遺徳を偲んで、鈴木神社や供養碑が建立されました。
 
【備考】
下記に旅行記があります。
旅行記 ・天草、殉教の地を訪ねて− 熊本県天草
  
【参考にしたサイト】
[1]鈴木重成:フリー百科事典『ウィキペディア』
[2]鈴木重成
 

  2007.02.28 
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