雑感  ・島原の子守唄   
− 島原の子守唄 −
江戸時代の末から明治・大正、昭和の初めにかけて、遠く中国や東南アジアなどに渡り、娼館(しょうかん)で働いた娘たちがいました。『からゆきさん』と呼ばれたそれらの娘たちの多くが島原(長崎県)、天草(熊本県)の出身者だったといわれます。
 
島原半島の最南端に口之津という港があります。今は、早崎瀬戸を隔てて7〜8kmの向こう岸にある天草の鬼池港とを結ぶフェリーが発着する静かな港ですが、大正初めに三池(福岡県大牟田市)に近代的な港が完成するまで、口之津は三井三池の石炭を積み出す外港として長崎に並ぶ賑わいを見せたといわれます。
 
・島原半島周辺の地理を確認する
  → http://washimo-web.jp/Trip/Shimabara/GoogleEarth.jpg
 
口之津港には、香港のバターフィルという船会社の船が出入りしていたので、のちに地元の人々は外国の貨物船をすべて『バッタンフル』と呼ぶようになったそうです。そして、天草の鬼池には、久助どんと呼ばれる人買い仲介の長者がいました。からゆきさんたちは、バッタンフルの船底に石炭と一緒に押し込められ、口之津港を後にしました。口之津町歴史民族資料館には、からゆきさんのコーナーがあります。
 
『おどみゃ〜 島原の〜』の歌詞で始まる『島原の子守唄』は、多くの方がご存知のことと思います。貧しいがゆえに南方へ送られていった娘たちを哀れむ一方で、少数ながら成功して帰ってきた「からゆきさん」をうらやむ貧しい農家の娘の心を描写したこの唄は、宮崎康平(本名一彰 1917〜1980年)作詞・作曲による戦後の創作子守唄です。
 
島原鉄道常務のかたわら文筆活動に勤しむ宮崎康平は、昭和25年(1950年)、極度の過労から眼底網膜炎が悪化して失明、二人の子を置いて妻は出奔します。失意の中で、泣く子をあやすうちに出来たといわれる子守唄は、昭和32年(1957年)、島倉千代子の歌でレコード化され、広く知られるようになりました。
 
ここで、『MIDIカラオケおやじの唄』さんのサイトで、『島原の子守唄』のメロディーを聞かせてもらいましょう。
→ http://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/Shimabara_no_KomoriUta.htm
 
歌意を書いてみました。
 
 (1)私は、島原の貧しい家の育ち
    色気なんてないから人買いに連れて
    いかれることもないでしょう
    泣かないで早く寝てちょうだい
    早く寝ないと、天草の鬼池の人買いの
    久助どんが連れにくるよ
 
 (2)帰りには寄って下さいね
    あばら家で白飯は出せないけど
    粟(あわ)にさつまいもを混ぜた黄金飯があるよ
 
 (3)人々の注意を火事の方にそらすため、人買いの集団が火をつけて
    山の家は火事だよ。その間に娘たちは、サンバ船という小船で
    沖に連れていかれたよ。小船を漕いでいるのは与論島の人だよ。
    姉さんは白い握り飯をもらって、いまは石炭船の底だよ。
    泣く子はカニに噛まれるよ。
    泣かん子には太い飴ん棒買ってやるよ
 
 (4)姉さんはどこへ行ったのだろう?
    青煙突のバッタンフル船は、外国のどこへ行ったんだろう?
    海の果てだろうか
    早く寝なさい、泣かないで
 
 (5)あの人たちは2つも金の指輪をはめておらっしゃる
    あの金はどこの金だろうか
    外国から持ち帰った金だろう
    お嫁さんの口紅は誰がくれたの?
    燃えるような赤い口紅、唇につけたら熱いでしょう
 
 (6)有明海の不知火は燃えては消えるよ
    バテレン祭りの笛や太鼓も鳴り止んだよ
    泣かないで早く寝てちょうだい
    泣かないで早く寝てちょうだい
 
近代の初め、『からゆきさん』となって異国に売られ、過酷な運命にさらされた娘たちは10〜20万、あるいは30万ともいわれます。この子守唄は、そうした歴史のあったことを如実に物語り、今に伝えています。
 
確かに、ブラームスやシューベルトの子守唄が、近代ヨーロッパ中産階級の、豊かで幸福な家庭における子供の子守唄であったのに対して、わが国の伝統的な子守唄に歌われているのは、封建時代の暗い陰々滅々とした世界です。
 
だから、豊かになった今日の日本には馴染まないもの、不要なものということでしょうか、現代の日本の若者たちは、短調のメロディーや悲哀のメロディーに関心を示さなくなったばかりか、子守唄のような日本の伝統的な旋律や唱歌が最近、音楽の教科書から消え去りつつあると言われます。
 
しかし、今日、性モラルの低下ははなはだしく、児童殺害などの凶悪犯罪は後を絶たず、そして今、耐震偽装問題が大きな社会問題となっています。豊かで平和な社会を目指そうとすればこそ、伝統的な旋律や唱歌が訴え、物語る史実や心情を決して忘れてはならないものだという思いがします。そんなことを考える島原への旅でもありました。                          (文中、敬称略)
 
【参考にしたサイト】
[1]宮崎康平:フリー百科事典『ウィキペディア』
[2]島原の子守唄 解説
  → http://rtakebe.hp.infoseek.co.jp/kuching/japan/shimabara.htm
[3]日本の民謡 曲目解説<九州地方>
  → http://www.1134.com/min-you/02/k6001.shtml
[4]宮崎康平のページ
  → http://www.geocities.jp/shimatetsuphoto/page036.html
[5]からゆきさんの小部屋
  → http://www.karayukisan.jp/index.html
 

  2005.12.21 
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