雑感  ・相対基準と絶対基準   
− 相対基準と絶対基準 −
山の上に溜(た)まった水は、それを谷に落として水車を回させれば、機械的仕事を生みますが、平地に溜まった水は高低差がないのでそれができません。同様に、大気中に気圧の差が生じると気流が発生し、風車を用いて機械的仕事を取り出せます。
 
1cc の水の温度を1℃上昇させるために必要な熱量を1cal(カロリー)と言います。すなわち、物質は、その温度が高ければ高いほどたくさんの熱量を保有していますが、どんなに温度の高い熱源があっても、それより相対的に低い熱源がないことには、機械的仕事を取り出すことはできません。
 
例えば、丸いフラスコの筒の部分にピストンを差し込んだ実験器具(太い注射器を想像して下さい)があり、中に25℃の空気が入っています。このフラスコを90℃のお湯に浸すと、中の空気は熱膨張してピストンを持ち上げます。しかし、フラスコの中の空気も温度が90℃だったら、熱膨張の起こり様がないので、機械的な仕事を取り出すことができません。
 
『目指す』は、本来『目差す』と書きました。目標とする状態と現在の状態との相対的な差を認識することが、奮起を促すモチベーション(動機付け)になるということでしょう。
 
相対差が感じられなくなって、新鮮さや創造性が失われた心理状態を『マンネリ化』した状態と言います。マンネリ化の状態になると、相対差を生じさせて心理状態をリフレッシュさせるため、人事の配置替えなどが行なわれます。
 
経済活動でも同じことが言えます。例えば、カラーテレビがあまねく普及し終わると、売れ行きが鈍ってきて、経済活動が困難になります。そこで、従来のテレビに比較して相対価値のある液晶テレビやプラズマテレビを開発して、消費者の購買意欲を喚起します。
 
このように、物理学においても、人間の心理でも、経済活動でも、『相対差』こそが活動の源であり、活性化とは格差を生むことに他なりません。このことは、熱力学において、『エントロピー増大の法則』が理論的に証明しているところです。
 
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著者は先月、菅原道真の嫡男や平清盛の孫らが落ち延びて分住したと伝えられる五家荘(熊本県八代市泉町)を訪れました。昭和42年(1967年)に道路が完成し、舗装もされているものの、普通車一台がやっと通れるほどの狭さで離合もままならない、現在でもなお秘境の地です。家はほとんど一軒家として散在していて、集落と呼べる形態ではありません。
 
死ぬわけにはいかない、生き続けなければならない、その一心で逃げ延びる必要がなければ、到底誰も住むことはなかっただろうと思われる秘境の地を、心細い思いをしながら車を進めて行くと、生きることの本質とは何だろうかと考えさせられます。
 
仁田尾(にたお)地区にある左座(ぞうざ)家は、道真公の長男から数えて48〜50代目の方々が今も暮らしていて、今から 200年ほど前に建造されたという茅葺の屋敷は、四方数km 内にほかに建物がない全くの一軒家です(すぐ下に民宿が建てられているので、今は二軒家の状態です)。
 
その49代目の奥様と話しをする機会がありました。電灯が灯るようになったのは昭和39年(1964年)頃で、道路が出来る以前は移動が容易でなかったため、隣地区の状況でさえ皆目わからない状態だったそうです。            
 
天然林を焼いた灰を肥料にして、ヒエ、アワ、アズキ、ソバなどを4〜5年の輪作(毎年植える作物を変えること)で栽培する焼畑農業が行なわれていましたが、今は国道となっている幹線道路にバスが通るようになると、10数km の道のりを歩いてバス停まで出かけ、そこでアズキやソバと米を物々交換するようになったそうです。そのようにして、お盆と正月には白ご飯を食べたました。
 
学校は、片道4km 歩けばすむ場所に小学校と中学校を兼ねた学校が作られ、複式で義務教育が実施されたそうです。
 
秘境の地のそのような環境下では、豊かさも貧しさも、幸せも不幸も、それらを他と比較する対象がなかったのです。あったのは、飢えや寒さをしのぎ、とにかく生きて行くために必要な絶対基準でした。白ご飯こそ思うように食べられなかったものの、焼畑農業でも意外に備蓄が豊富で、冬でも食うに困ることはなかったと話されていたのが印象的でした。
 
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私たちも私たちの社会も、相対差を作ってそれを喰(く)らい、喰らい尽くすとまた新たな相対差を作り出して喰らう、それを繰り返しながら生きて行かざるを得えない運命にあります。そうやって絶えず渦巻いていないと、川辺の葦(あし)のはざまによどむ渦は、大河の流れに引き込まれ消え失せてしまいます。
 
そうなのですが、相対基準や相対的価値観に余りに固執し過ぎると、相対差は優越感や驕(おご)り、劣等感やねたみや不満の元凶となります。また、大きすぎる格差は、かえってやる気の喪失感を助長し、社会崩壊の要因にもなります。政治の役割が求められます。五家荘への小旅行は、相対基準と絶対基準と言うことについて考える機会になりました。
 

2006.08.16 
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