レポート  ・大浦兼武と平田孫一郎   
 
大浦兼武と平田孫一郎
2023年の8月のお盆過ぎ、愛知県豊田市から長男夫婦と孫2人、福岡県北九州市から次男夫婦と孫1人、鹿児島から我々2人の、計9人が島根県松江市の玉造(たまつくり)温泉に集まって、連れ合いの古希祝いをしました(4年前の著者の古稀祝いは有馬温泉でした)。

山陰には、玉造温泉の他に皆生(かいけ)温泉、三朝(みささ)温泉や城崎(きのさき)温泉といった、いずれも漢字の読み難い温泉がありますが、玉造温泉にしたのは、足立美術館と出雲大社、島根ワイナリーが目当てだったこともありました。

子供らが捜した宿は「長楽園」という老舗旅館。庭園と 120坪を誇る日本一の混浴大露天風呂が自慢の宿でした。混浴といっても、専用下着を着用して入る露天風呂ですが、120坪の広さですから、池みたいに大きな風呂でした。写真を撮れなかったのが残念でした。

広さ一万坪、数百種の樹木草々に彩られた、回遊式庭園は、米紙「ジャパニーズ・ガーデン・ジャーナル」日本庭園ランキング上位入賞の庭園。これもこの旅館のおもてなしのひとつだとホームページにあります。

この旅館のロビーに「長楽園命名者 大浦兼武」という写真が掲げてありました。どこかで聞いた名前だが・・・。よくよく考えて気づきました。著者の住む鹿児島県薩摩郡宮之城町(現さつま町)出身の明治時代の政治家でした。詳しくは知らない人とでしたが、奇遇でした。

調べてみると、明治維新のころ一巡査から身を起こし知事、警視総監、通信・農商務・内務の各大臣を歴任し子爵に列せられた人でした。明治26年から2年間、島根県知事をつとめていたときに「長楽園」という旅館名を命名したということのようです(1)

§1 大浦兼武

大浦兼武(おおうら・かねたけ、嘉永3年(1850年)〜大正7年(1918年))は、宮之城島津家の家臣として、宮之城(現鹿児島県さつま町宮之城屋地)に生まれました。戊辰戦争では薩摩藩軍に参加し、奥羽方面に出征。明治維新後は警察官となり、警視庁警部補に昇任。

明治10年の西南戦争で抜刀隊を率いて功績を挙げ、明治15年、大阪府警部長(現在の警察本部長)に就任。明治17年に起きた松島事件(陸軍兵士と警察官の乱闘事件)の鎮定により評価を高め、明治21年警保局次長に就任します。

明治26年以降、島根県・山口県・熊本県・宮城県の知事を歴任して、明治31年、警視総監に就任。明治33年には貴族院議員に勅選されました。さらに明治36年、第1次桂内閣で逓信大臣として初入閣したのを皮切りに、農商務大臣を2回、内務大臣を2回務め、明治44年には子爵に列せられました。

長楽園のロビーに飾られている大浦兼武の写真
このように、一巡査から身を起こし、子爵に列せられるまで上り詰めた大浦兼武でしたが、西南戦争では立場上官軍に属し、官軍別働第3旅団の小隊長として宮之城を攻めたので生涯郷里から憎まれました(2)

その妹・やさ子は、宮之城島津家の三家老平田家の長男孫一郎に嫁いでいましたが、大浦のため離縁させられました(さつま町郷土史研究会会長の三浦哲郎氏によるときれいな人だったとそうです)。

平田孫一郎は西郷軍で熊本城攻撃に参加しましたから、西郷南洲翁を従弟の大山巌少将が討伐に赴いたのと同じということになります。さらに悲惨なことは、今一人の妹・とえ子の夫・山本直紀も西郷軍に参加し熊本県松橋で戦死し、兼武の弟佐助は16歳で西郷軍に参加して負傷しています。

明治10年6月21日に、官軍の宮之城攻撃が始まりましたが、その前に大浦小隊長は親戚に連絡し、女子どもは山中に逃げよと指示し、部下には絶対放火と盗奪を禁じ小銃は空に向けて撃てと命じました(3)。 また、次のような話が「薩摩町郷土誌」に残されています(4)

〜大浦どん(大浦兼武)は宮之城で放火や略奪をした者は銃殺にすると言って官軍を統率したので宮之城方面では無事にすんだ。しかし、官軍は求名(ぐみょう)を過ぎ伊佐郡(現伊佐市)に入ると住家を焼いたそうだ。大浦どんのおかげで助かった。〜

大浦兼武にとって、懐かしい郷土を攻めることはさぞかし断腸の思いであっただろと思われます。彼の銅像が盈進校(現さつま町立盈進小学校)に建ったのは死後9年経った昭和2年でした。しかし、これも太平洋戦争で供出され、現在は台座が残っているだけです。大浦兼武翁死して60年以上経過し、今や語る人もいなくなっています。

§2 平田孫一郎

大浦兼武について書いたならば、平田孫一郎に触れないではいられません。平田孫一郎(嘉永元年(1848年)〜大正10年(1921年))は、宮之城島津家の次席家老・平田四郎兵衛の長男として、城之口(現鹿児島県薩摩郡さつま町宮之城屋地)に生まれました。

20歳で戊辰戦争、30歳で西郷軍として西南戦争に従軍。このとき、敵となった同郷の大浦兼武の妹・やさ子と離縁することとなりました。西南戦争後は国事犯として東京市ヶ谷監獄に収監されます(5)

市ヶ谷監獄で知り合った群馬県出身者から養蚕とその有利性を聞きます。釈放されて郷里に帰った平田孫一郎は、早速、群馬県や熊本県からカイコの卵である蚕種を取り寄せ、熊本の養蚕業を視察し桑の苗を買い入れて盈進館(えいしんかん、盈進小学校の前身)の庭に植えました。

明治19年に盈進館の校庭の片隅に製糸工場を建設すると、翌年には生糸をアメリカに輸出するほどの成果を挙げました。明治26年には水力ケンネル式釜焚火の動力製糸所を設立。

明治26年、平田は厚生社という養蚕組織を作り、そこに当時、鹿児島県下の養蚕を指導していた福島県出身の菅野平十郎を招いて京塚原の模範桑園で優良蚕種の生産を試みました。

菅野の献身的な養蚕飼育法伝授で京塚原の農園は肥沃な土地によみがり、厚生社の蚕種は瞬く間に県下に普及しました。平田のこれらの功績により、宮之城は県下屈指の繭市場へと成長しました(6)。 

桑の葉と繭(まゆ)がデザインされた盈進小学校の校章

その後、製糸所は現在のプラッセだいわ宮之城店の場所に移転。大正15年に片倉製糸紡績株式会社(現片倉工業株式会社)へと経営が引き継がれていきました。最盛期の頃には、女工さんが退社する時刻になると、製糸工場の前には彼女らを迎える車がずらっと並んだそうです。

その製糸工場も養蚕業の衰退により昭和56年に廃業しました。盈進小学校の校章には、蚕の繭とエサである桑の葉があしらわれており、かつて宮之城養蚕の発祥の地だった名残りを今に留めています。

【参考文献および参考サイト】
(1)旅行記 ・長楽園(玉造温泉) − 島根県松江市
(2) 「宮之城文化懇談会」のホームページへようこそ!(今は昔・俚諺)
(3) 宮之城歴史散歩改題 さつま町歴史散歩(平成13年(2001年)6月創刊、
  令和5年(2023年)6月発行)
(4) 「宮之城文化懇談会」のホームページへようこそ!(ふるさと楽楽楽遊遊遊)
(5) 平田孫一郎 生誕の碑(石碑 | 楠木神社の世界へ)
(6) レポート 製糸・養蚕にまつわる話し

  2023.08.16
あなたは累計
人目の訪問者です。
 − Copyright(C) WaShimo All Rights Reserved. −