レポート  ・阿部みどり女の俳句   
− 阿部みどり女の俳句 −
2020年1月22日の南日本新聞の『かごしま愛の言の葉』のコラムに山下久代さんが昭和期の女流俳人・阿部みどり女(あべみどりじょ 1886年〜1980年)のことを書いていました。
 
2018年に宮城県在住の俳人・高野ムツオ氏を尚古集成館に案内したとき、永山武四郎の写真の前で突然、氏が『みどり女のお父さんだ』と発したそうです。永山武四郎は旧薩摩藩士で第2代北海道庁長官を務めた人ですから、みどり女は鹿児島の血を引いた俳人だったわけです。
 
 阿部みどり女(1886年〜1980年)
 
本名はミツ。北海道生まれ。北星女学校(現北星学園女子中学高等学校、札幌市)を修了。1910年に阿部卓爾と結婚して東京に住んでいましたが、結核にかかり、鎌倉で療養。この頃から俳句を始めました。
 
1915年に高浜虚子に師事、以後『ホトトギス』を中心に作品を発表。1931年から『河北新報』(宮城県仙台市に本社を置く新聞社)の俳壇の選者となります。1932年に東京杉並で俳誌『駒草』を創刊・主宰。
 
1940年に長男と夫を相次いで失ない、1944年に太平洋戦争の激化に伴い仙台に移転。1945年に『駒草』を復刊、以後30余年に渡って同地の俳句界で活躍し、1956年に河北文化賞を受賞。
 
1978年に句集『月下美人』などの業績で第12回蛇笏賞を受賞。その後、東京に転居。1980年9月10日、93歳で死去。始めは主情的な俳風でしたが、後に虚子が客観写生を説くと彼女もそれに従います。
 
更に写生を極めるために洋画家森田恒友に素描を学びます。長谷川かな女、杉田久女とともに、女流俳句草創期を代表する一人。金子兜太は、かな女と久女を感情型、みどり女を想念型と評しています。以上、阿部みどり女 - Wikipediaを参照。
 
  阿部みどり女の俳句
 
  命より俳諧重し蝶を待つ
  釘文字の五月の日記書き終る
  雑用の中に梅酒を作りけり
  海底のごとく八月の空があり
  空蝉のいづれも力抜かずゐる
  物言はぬ独りが易し胡瓜揉み
  ゝゝと芽を出す畑賢治の忌  
  鈴虫や浄土に案内の鈴を振れ
  空一杯鰯雲なり夢の中
  九十の端を忘れ春を待つ   
 
備考1:『ゝゝ』は『ちょんちょん』と読み、『端』は『はした』と読みます。
備考2:永山武四郎については『二人の永山 ー 歴史を訪ねる旅(13)』と題する
    レポートがあります。関心のある方は是非ご覧ください。
    → https://washimo-web.jp/RobataNo15/Z08FutarinoNagayama.pdf
 

2020.01.22
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