レポート  ・ 加藤光正と加藤家改易   
 
− 加藤光正と加藤家改易 −
 
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賤ヶ岳の七本槍のひとりとして功名をあげるなど、豊臣秀吉の子飼いの家臣として活躍した加藤清正。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後国一国54万石を与えられ、熊本藩初代藩主となりました。
 
清正はまたすぐれた土木技術者でもありました。領内の治水事業に意欲的に取り組み、治水・利水工事によって農業生産量の増強を推し進め、 400年経った現在も実用として使われている遺構が少なくなく、今でも土木の神様、農業の神様として地元の人々に崇拝されています。
 
その加藤清正が、慶長16年(1611年)49歳で亡くなります。それから21年後に加藤家は改易になりますから、改易を知らずに済んだことは清正にとってむしろ幸いだったと言えるかも知れません。それとも、清正が健在であれば(70歳に達している)、改易になることなどなかったのでしょうか。
 
加藤清正の死去にともない、三男の・忠広(1601〜1653年)が11歳の若年で跡を継ぎます(長男、二男はいずれも早世)。31歳になった寛永9年(1632年)の夏、帰国中の忠広に対して21ヶ条の詰問状が渡され、速やかに出府して弁明せよとの命令が出されます。
 
忠広はその命令を受容れて出府しますが、幕府は忠広を品川宿で止め江戸に入るのを許さず、池上本門寺に待機させました。幕府は、嫡子・加藤光正(1614〜1633年)の不届き、母子を無断で国許に送ったこと、さらに平素の行跡よろしからずとして、肥後一国を改易にしたのでした。
 
忠広は出羽庄内酒井忠勝に預けられ1万石が与えられます。一方、光正は飛騨高山三代目藩主・金森重頼にお預けとなり、堪忍料として月俸百口を給され、天性寺(現天照寺)に蟄居しましたが、1年後の寛永10年(1633年)に19歳の若さで病死。これには自刃説、毒殺説もあるようです。一方、忠広は庄内丸岡村で22年暮らして、承応2年(1653年)に52歳で死去しました。
 
配流の地でさびしく亡くなった光正を哀れんだ金森重頼は、高山城内の建物を移してその本堂を建立し、法華寺を再建しました。法華寺には立派な光正の墓が建てられ、光正が配流のときに持参したものと伝わる遺品は県の文化財に指定されています。
 
さて、加藤家改易の理由は何だったのでしょうか? 明治6年(1874年)に完成した飛騨地方の地誌『斐太後風土記』(編者富田礼彦)や明治時代に東京で発行されていた『雑誌 飛州』には、つぎのようにあるそうです。
 
〜 年来の家来に広瀬何某という生まれつきの臆病者がいて、加藤光正の慰み者になっていました。ある日、光正の戯れ癖が出て、近習の者と相談して、その臆病者をからかってやろうということになりました。
 
武具馬具を取出し、たいまつを灯し、光正をはじめ皆が甲冑に身を固めて、某を呼び出して『今夜火急に謀反を企て、挙兵をすることになった。ついては汝を一方の大将とするので、いざ早く用意をするように!』と命じます。
 
臆病者の某は、愕然とし仰天して、一目散に走り去って行きます。某が見えなくなると、一同はどっと大笑し、今見たことを繰返し繰返し真似などしながらおかしさを堪えながら語り合っていました。
 
かなり時間がたった頃、『将軍家より御伝の旨があるから、急いで登城するように』というお城からの使いが来ました。登城の催促が頻繁であったので、やむをえず光正が登城すると帯刀を取あげられ、身柄を預けられ、国元の肥後熊本へ急ぎ使を立てられました。
 
実は、愚直で疑うことを知らない広瀬何某は、家には帰らず、夜中でしたが、登城して、急を告げ、江戸幕府に直訴していたのでした。 〜
 
光正のこの謀反の戯れごとが加藤家改易の理由だというのです。幼稚な話で、本当とは思えませんが、そんな話がでるほど加藤家改易の理由は不明朗で諸説があるということでしょう。本当の理由はどの辺にあったのでしょうか? 
 
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表向きには、熊本藩第2代目藩主加藤忠広の嫡子・光正の不届きや忠広自身が江戸で生まれた母子を無断で国許に送ったことなどが加藤家改易の理由とされていますが、改易の背景には、加藤氏が豊臣恩顧の大名であったこと、加藤家にお家騒動が続いたこと、そして徳川家光と後継者争いをした徳川忠長と忠広が非常に親しかったことがありました。
 
 @ 加藤氏が豊臣恩顧の大名であった
 
熊本藩初代藩主・加藤清正は、豊臣秀吉と親戚関係にあり、秀吉子飼いの武将として活躍しました。秀吉亡き後、家督を継いだ豊臣秀頼の後見人的立場にあった清正は、秀頼がなお徳川家と一定の対等性を維持していた慶長16年(1611年)の3月、二条城で秀頼と家康の会見を実現させました。
 
秀頼と会見した家康は、堂々たる体躯の秀頼のカリスマ性に驚いたともいわれます。秀頼と家康の会見を見届け、これで豊臣家も安泰だと満悦至極の清正は、その帰国途中の船内で発病し、6月熊本で死去してしまいました。享年50(満49歳没)。家康あるいは家康一派による毒殺ではないかとの憶測が流れたともいわれます。その後も、徳川幕府は豊臣恩顧の大名を取り潰す機会を虎視眈々と狙っていきます。
 
 A 加藤家のお家騒動
 
加藤清正は徹底した独裁政治を行っており、他藩のように家老職を置いていませんでした。いずれ清正の亡き後、家臣による主導権争いが勃発するであろうことが想像されていたわけです。
 
清正が亡くなったとき、三男の虎藤(後の忠広)は10歳でした。10歳の幼小では肥後54万石の統治は難しいというので、幕府は清正の重臣の中から5名を家老に任命し、目付として藤堂高虎を派遣してきました。そして、案の定、幼い忠広を当主に、家老の中で内紛が起きるのです。
 
忠広の襲封から7年を経た元和4年(1618年)、家老の加藤正方派(馬方)と同じく家老の加藤正次派(牛方)による藩政の主導権をめぐる対立抗争が起こり、将軍徳川秀忠の親裁によってやっと藩政の主導権が一本化されるというお家騒動は、『牛方馬方騒動』と呼ばれました。お家騒動は改易の絶好の口実になります。
 
 B 2代目藩主・加藤忠広が徳川忠長と非常に親しかった
 
第2代将軍秀忠と正室・お江の方(浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる)は、二男竹千代(家光)より、才気も容貌も勝れている三男国松(忠長)を溺愛しますが、それが癪にさわった竹千代の乳母福(春日局)は、駿府城へ駆け込み、大御所家康に直訴しました。これによって、次期将軍の座を巡る争いは、竹千代派の勝利に終わり、元和9年(1623年)徳川家光が第三代将軍に就任しました。
 
一方、徳川忠長は、寛永元年(1624年)駿河駿府藩55万石を領有しますが、寛永8年(1631年)不行跡(家臣1名もしくは数人を手討ちにしたとされる)を理由として蟄居を命ぜられ、翌年3月大御所秀忠が死去すると改易となり、寛永10年(1634年)に幕命により自刃。享年28。
 
加藤忠広は、2代将軍秀忠の養女・琴姫(蒲生秀行の娘)を正室にもらっていたので、その前途は順調そのものであったわけです。牛方馬方騒動の際に忠広の責任が不問とされたのもそのためだといわれます。忠広は、3歳年下の家光より3歳下の忠長と馬が合い、二人は非常に親しい仲にありました。
 
寛永9年(1632年)3月大御所秀忠が亡くなった夏、忠広は幕府によって池上の本門寺で待機させられ改易となりました。加藤家改易の後の肥後国には、豊前小倉から細川忠利が移封されます。細川氏も外様大名でしたが、幕府とは良好な関係にありました。そして、小倉には細川氏の後に譜代大名である小笠原氏が入り、小笠原氏は九州諸大名の監察の役目も負ったといわれます。
 
徳川忠長の改易も表向きの理由は、忠長の不行跡ということですが、本質的には幕府権力の確立・強化が目的だったわけです。幕府が権力の確立・強化に躍起になっている時期に、大局的に藩の行く末を見る人物がいなかったというのが、そもそもの加藤家改易の原因ということになるでしょう。
 
下記の旅行記があります。
旅行記 ・法華寺(高山市) 〜 天照寺 − 岐阜県高山市
 
【参考にしたサイト】
(1)飛騨高山の四季 第81号(飛騨・高山観光コンペンション協会、
   平成24年5月1日発行)
(2)飛騨の歴史再発見! 5月14日放送分 加藤光正が左遷された理由
(3)加藤肥後守忠広 - 歴史の勉強・大名騒動録
(4)ふるさと寺子屋 No.143「大局がみえなかった加藤忠広」
(5)徳川忠長 - Wikipedia
 

  2014.03.12
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