レポート  ・うれしいひなまつり   
− うれしいひなまつり −
2月中旬から下旬になると、商店街やアーケード街に童謡『うれしいひなまつり』の歌や音楽が流れ、ひなまつり商戦が始まるのが、わが国の毎年の風景ですが、最近量販店や大型ショッピングセンターの出現などによってショッピングの様相も変化し、だんだん懐かしい風景になりつつあります。
 
3月の最初の巳(み)の日(上巳の日)に人形(ひとがた)に厄を移して水に流す祓(はら)いの行事に、上流階級の女の子の間で行われていた『ひいな遊び』の風習が習合したのがひなまつりだといわれます。
 
戦乱の世が落ち着いた江戸時代になると、宮中行事としてひなまつりが取り入れられ、その後幕府の大奥でも取り入れられるようになりました。それが、江戸時代中期には町人の間に広がり、地方へも伝わって行きました。
 
九州でも、天領日田(大分県)や島津家(鹿児島市)、鍋島藩(佐賀市)、中津藩(大分県)などのひなまつりで、豪華絢爛で由緒あるひな人形をみることができます。
 
『うれしいひなまつり』(作詞・サトウハチロー、作曲・河村光陽)は、昭和10年(1935年)に流行し、ひなまつり童謡の定番となった歌ですが、うれしく、楽しいはずのひなまつりの歌としては、マイナー調で何と哀感の漂う童謡なことでしょうか。小学生の頃は、そういうことを考えることもなく、ただただ大声を張り上げて合唱したものでした。
 
サトウハチローは、この詩を書いた昭和10年に、最初の夫人と離婚して、2人の女の子と男の子を引き取っています。女の子たちは、まだまだ母親が恋しい年頃でした。豪華なひな人形を買ってやると、喜んで一日中おひなさまで遊んだそうです。
 
      着物をきかえて 帯しめて
      今日はわたしも はれ姿
      春のやよいの このよき日
      なによりうれしい ひな祭り
 
小さい頃、腰に大やけどを負って満足に歩けず家の中で遊ぶことが多ったハチローは、4歳上の姉・喜美子からピアノの手ほどきを受けます。その姉が、嫁ぎ先が決った矢先、肺結核に冒され18歳で亡くなってしまいます。姉への鎮魂歌でもありました。
 
      お内裏様と おひな様
      二人ならんで すまし顔
      お嫁にいらした 姉様に
      よく似た官女の 白い顔
 
ひなまつりの哀感を歌っているのは、童謡『うれしいひなまつり』だけではないようです。例えば、次のような句があります。
 
      折りあげて一つは淋し紙雛    三橋鷹女
      雪みちを雛箱かつぎ母の来る  室生犀星
      雛の間の更けて淋しき畳かな  高浜年尾
 
【参考】
このレポートを書くに当り、下記のサイトなどを参考にしました。
二〇世紀ひみつ基地  哀しきひなまつり
うれしいひなまつり
『案外、知らずに歌ってた 童謡の謎』合田道人著
 

  2007.03.07 
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