コラム | ・ごぜむけとおんじょ |
− ごぜむけとおんじょ −
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鹿児島弁(薩摩弁)は、もともと外部から侵入するスパイ対策として使われ出したものだといわれるぐらい(但し、この説は言語学的には根拠がなく否定されているようです)、中央の言葉と異なる言葉を使います。ですから、純粋な鹿児島弁でしゃべられたら、県外の人にはさっぱり分からないということになります。 例えば、今、鹿児島のテレビコマーシャルで流れている『薩摩兵児謡』(さつまへこうた)という歌の意味が県外の人には分からないらしいのです。 兵児(へこ)とは、昔の鹿児島地方で、15歳以上25歳以下の青年のことをいう言葉でした。『薩摩兵児謡』は、顔や容姿など、外見にかまうことなく、天下を動かすような男になろうという気概を歌って自らを励ます歌で、昔、学舎の中で歌い継がれていたといわれます。歌詞は三番までありますが、一番の歌詞はつぎのようです。 おどま薩州薩摩のぶにせ 色は黒くて横ばいのこじっくい 今じゃこげんして からいもどん くっちょどん やがちゃ 天下の ご意見番じゃ そんときゃ わいどんも おいげ〜えこんか おいげ〜えこんか (訳) 俺は鹿児島のブ男 肌の色は黒くて、太っていて背は低い 現在はこうして薩摩芋などを食べているけれど やがては天下のご意見番だ そのときは、お前たちも 俺の家に来い、俺の家に来い 昭和24年生まれの著者は、ものごころ付いた頃から鹿児島弁に囲まれて育ちましたから、純粋の鹿児島弁も分かりますし、またしゃべることもできますが、意味の由来が未だに分からない言葉がたくさんあるのです。そんななかで、最近になって意味の由来がわかった言葉があります。『ごぜむけ』と『おんじょ』という言葉です。 『ごぜむけ』は鹿児島弁で、結婚式のことを言います。たとえば、『きゅは、いとこがえん、ごぜむけじゃ』(きょうは、いとこの家の結婚式だ)、などと使います。 宮崎県都城市にある『山之口麓文弥節人形浄瑠璃資料館』(人形の館)を訪ねたのは、昨年(2011年)12月のことでした。この地域は、かつて薩摩藩領だったところで、山之口麓文弥節人形浄瑠璃は、藩士たちが関西から持ち帰ったといわれる人形浄瑠璃創始期のいわゆる古浄瑠璃の面影を今に伝える貴重な芸能です。 山之口麓文弥節人形浄瑠璃上演の幕間に演じられる『間狂言』(あいきょうげん)に『太郎の御前迎』という演目があるのを知りました。 この間狂言は、頭が大きくて動作ののろい太郎という男が、高砂婆という女性を嫁にもらう物語ですが、”御前迎”に『ごぜむけ』という読み仮名が添えられていたのでした。すなわち、『ごぜむけ』とは、”御前を迎える”という意味だったのです。 御前とは、婦人を敬っていう言葉であり、また特に白拍子の名に付けて、『静御前』とか『祇王御前』などと使います。かつて男尊女卑と言われた鹿児島地方にあって、嫁を”御前”などと称するとは、(言葉だけでも)何と気の利いたことでしょうか。 一方、『おんじょ』は、爺(じじ)や祖父など、老年の男性のことをいう方言です。ものごころ付いた頃、『言うことをきかないと、”おんじょ”が連れて行くよ!』と脅かされたもので、『おんじょ』といえば、きたない綿入れのどてら(丹前)を着た、無精ひげで髪の毛茫々の恐い老人のイメージが頭にこびりついていました。 ところが、先月見に行った、薩摩川内市高江町の南方神社の予祝祭である『太郎太郎踊り』で、雲上人の雲上(うんじょう)が訛って『おんじょ』になったという説明があったのでした。髪の毛茫々の恐い老人のことだと思っていたのが、”雲上人”とは驚きでした。 17世紀から18世紀の頃の薩摩国の農民であったとも、または漁民であったともいわれる前田利右衛門(まえだ・りえもん)は、水夫として琉球に渡った際にサツマイモの苗を薩摩に持ち帰りました。 飢餓の時にサツマイモが多くの住民を救ったことなどから、その業績が賞賛され、あちこちに顕彰碑が建てられ、出身地の指宿市山川町岡児ヶ水(おかちょがみず)には、利右衛門を祀る徳光神社(とっこうじんじゃ)という神社(別名、からいも神社)が建立されています。 また、前田利右衛門には『甘藷翁』の称号が与えられました。利右衛門の名前を銘柄に頂く、指宿酒造協業組合の本格芋焼酎『前田利右衛門』のサイトなどには、甘藷翁は、『からいもおんじょ』と読みます、とあります。翁(おきな)を『おんじょ』と呼ぶわけです。 2月中旬から3月初めにかけて、南九州各地で行われる農耕の春祭りである予祝祭では、田起こしから代掻き、種まきあるいは田植えまでのストーリーが、方言を使ってユーモラスに演じられ、会場は笑いの渦に包まれます。 もし、セリフが方言でなく標準語でしゃべられたとしたら、笑いも半減することでしょう。2012年3月7日の南日本新聞の一面コラム『南風録』に次にような記事がありました。 〜明治以降、昭和40年代までは全国で方言撲滅運動が繰り広げられた。特に鹿児島は運動が徹底していた土地の一つである。背景には方言への強い劣等感があった。鹿児島の標準語教育の様子は言語学者・柴田武さんの『日本の方言』(岩波新書)に詳しい。 方言を禁じられた子ども同士の会話を『ヒモノになった東京語を見せられる思いだった。これでは、けんかはできない』と評している。方言は感情を表す表現が豊かだ。(中略)土地土地の暮らしや風土、文化に根付いた言葉だからこその豊かさに他ならない。〜 春の予祝祭などの伝統行事が、子供たちが方言に触れ、方言に親しむ機会にもなれば幸いだと思います。 |
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