雑感  ・美しさと正しさ   
美しさと正しさ 

最近のドッジボール

最近、と言っても、もう数年前のことです。小学校で3〜4年生のドッジボールの試合を見る機会がありました。コートの床にワンバウンドしたボールを取り損じて、ボールが床に転がり、ボールを奪い合う状態になりました。ところが、子供たちは試合を中断して、みんなでジャンケンを始めたのです。「最初はグー」「ジャンケンポン」「アイコデショ」。なかなか決まりません。決まるまで試合は中断。相手の子供たちは立ったままで、ジャンケンが終わるのを待ちます。先生は何も言いません。やっとジャンケンが終わって、勝った子供がボールを投げてゲーム再開です。


変なドッジボールだなと思って、あとでたずねてみました。それが、今の学校のドッジボールのやり方だそうです。だれのボールか分からなくなったら、「ジャンケンで決めるのが最も公平だ」というのです。実社会ではどうでしょう。例えば、セールスマンがジャンケンで顧客を分配するというふうにはなりません。

徒競走

似たようなことは、学校の運動会でも見られるようです。運動会の競技種目から徒競走を外す小学校があります。一等からビリまで足の速さに序列をつけるのは不平等だということでしょう。ゴールの直前で立ち止まって、最後はみんなで手をつないでゴールする学校もあるそうです。


ドッジボールや徒競走の新しいやり方のベースになっている「公平」「平等」の考え方をどのように受け止めたらいいのか、ずーっと考えてきました。このことについて、作家の橘玲(たちばな・あきら)さんは、9月7日(日)の日本経済新聞で「人間は平等だという美しい虚構を信じることで近代社会は成立している」と書いています。そして、「だが美しさも限度を超えると醜悪になる」と言っています。

偽善のないルール
株の投資家は、不確実な未来を占いながら株を売り買いします。買った株が上がれば儲けて大金を手にしますが、下がれば大損です。会社を興して成功すればお金持ちになり、失敗すると私財まで失う羽目になります。法の許す範囲でより多くの金を稼いだ者がゲームの勝者になります。敗者は退場せざるを得ません。


株や会社経営をやらなくても、実社会には、一切偽善の入り込む余地のないルールや競走があって、私たちはその中で生きて行かなくてはならないのも事実です。橘玲さんは言います。「すべてを金銭に還元して評価し、序列化する資本主義には一片の偽善もない」と。そして、「だが正しさも限度を超えると耐え難くなる」と。

上手に折り合って
「夢だけを見て生きていくわけにはいかない。真実だけを突きつけられる世界は息苦しい。社会を支える相反する二つのルールと上手に折り合いをつけるところに人生の知恵は生まれるだろう。」と、橘玲さんは記事を結んでいます。


その「上手に折り合いをつける」ということを、子供たちの教育の中にどのように織り込んで行けば良いのでしょうか。教育関係者の、子を持つ親の、そして地域社会の「知恵の見せどころ」のように思います。


【備考】次の新聞記事の一部を引用させて頂きました。
  2003年9月7日(日曜日)の日本経済新聞・朝刊
  日曜日の人生設計・もう一つの幸福のルール
  美しさと正しさの狭間(はざま)で
  著者・橘玲(作家)

2003.10.01 
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