レポート   国歌・君が代の源流を探る   
 
− 国歌・君が代の源流を探る −
鹿児島県薩摩郡さつま町にある著者の自宅から車で20分足らず走った隣町の薩摩川内市入来町に大宮神社という神社があります。その神社の鳥居の近くに次の様に書かれた看板が立っています。
 
             「君が代」発祥の地
 
     ここ、大宮神社に昔から奉納されている神舞の中で「君が代」を
     歌います。これが明治三年に歌い始められた国歌「君が代」の基
     になったのです。入来町郷土史研究会
 
一方、神奈川県横浜市中区に妙香寺という日蓮宗の寺院があります。この寺は国歌・『君が代』発祥の地として知られており、境内にその石碑が建てられています。薩摩藩は、1869年(明治2年)に日本で初めての近代的な軍楽隊である薩摩藩軍楽隊(通称、薩摩バンド)を設立しました。
 
薩摩バンドは妙香寺を寄宿舎とし、当時横浜に駐屯していた英国陸軍第十連隊第一楽隊長のジョン・ウィリアム・フェントンの指導を受けていました。その頃、日本にはまだ国歌がなかったため、フェントンは国歌の必要性を説き、歌詞があれば作曲しようと問いかけます。
 
それを受けた、当時薩摩藩歩兵隊長であった大山巌は、自分の愛唱歌だった薩摩琵琶の『蓬莱山』の歌詞の中より『君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりて苔のむすまで』の部分を選んで、フェントンに作曲を依頼します。フェントンはさっそく曲をつけ、1870年(明治3年)に薩摩バンドによって初演されたのです。すなわち、横浜の妙香寺の石碑は、国歌・『君が代』初演の地の石碑なのです。
 
『国歌君代発祥の地』の石碑(横浜市・妙香寺)
(出典:君が代 - Wikipedia)
 
さて、鹿児島県の片田舎の神社で昔から奉納されていた神舞の中で君が代が歌われていたことが、明治3年の国歌『君が代』の成立にどのようにつながって行たのか、歴史の接点を探ってみたいと思います。
 
〔補遺〕
 
『君が代は日本の国歌(国の歌)としてふさしくない』という意見があります。よく引用されるデータに、1974年(昭和49年)12月に実施された内閣府・政府広報室の世論調査結果があります。調査の対象者の76.6%が『君が代は日本の国歌(国の歌)としてふさわしい』と回答する一方で、 9.5%が『ふさわしくない』と回答したそうです(君が代 - Wikipedia)。本レポートは、『君が代が日本の国歌(国の歌)としてふさわしいか、ふさわしくないか』という論議には言及せず、国歌君が代成立のいきさつを探ることを論旨と致します。
 
 (1)入来
(いりき)
 
入来(現在の薩摩川内市入来町)は、鎌倉時代に関東の豪族として現在の東京・渋谷に城を持ち、また相模の国(現在の神奈川県)に勢力をもっていた渋谷氏が、宝治元年(1247年)に、鎌倉幕府から戦勝の褒美として薩摩国のこの地を与えられて下向し、根拠地としたところです。
 
渋谷氏は、入来院と名乗り、居城として山城・清色(きよしき)城を築き、その清色城を背景に山裾に近世の地頭館(お仮屋)を置きました。東を流れる樋脇川との間の平地を中心的な武家集住地として集落が形成されました。その旧武家集住地は平成15年(2003年)に国の重要伝統的建造物群保存地区(武家町)に選定されています。
 
入来院氏は、16世紀中期頃に島津の軍門に下りますが、近世は島津大名家御家門の一に数えられ、鎌倉以来明治維新までの 620年余りに渡ってその社稷(しゃしょく)を全うしました。
 
また、薩摩・大隅・日向の三州を統一を果たした第16代島津家当主・島津義久、その弟で、関ヶ原の戦いの敵中突破で知られる島津義弘らの母(雪窓夫人)は、入来院11代当主入来院重総の娘でした。

 (2)大宮神社と入来神舞
(いりきかんまい)
 
鎌倉時代以来入来院の総社として、産業生産、縁結の神として郷民に厚く尊崇されて来たのが大宮神社でした。祭神は大己貴命(また、大物主命、大国主命とも)、近江国坂本に鎮座する日吉神社の支社として祀られて来た神社で、明治4年(1871年)以来は郷社とされました。
 
その大宮神社で毎年、例祭(11月23日)と大晦日に奉納されてきた独自の神楽(かぐら)が入来神舞(いりきかんまい)です。古代入来隼人の隼人舞と、中世に相模国から下向してきた渋谷氏が伝えた上世雅楽、並びにその後流入した出雲神楽などが混和されて、現在の演劇的入来舞が生まれたと推測されています。
 
舞は種類によって異なりますが、1〜12名の男女で構成され、楽は太鼓1名、笛1名です。演目は全部で36番まであり、それぞれ五種の神楽曲のいずれかを使って舞われます。演目を大別すると、古代以来の攘災呪術的舞(巫女舞・火の神舞・剣舞等)、稲作儀礼に関する舞(杵舞・田の神舞等)、岩戸神楽舞(天岩戸の神話劇)の3つに分けられます。
 
36番中の22番の『十二人剣舞』は、中央鬼神が、剣を持った白装束の12人の舞人に天照大神(あまてらすおおみかみ)の由来を説く岩戸神楽舞で、この舞中で舞人が左手に太刀を持って登場し、鬼神の前に出て『君が代は千代に八千代にさざれ石の巌(いわお)となりて苔のむすまで』と声高らかに朗詠します。
 
この舞で登場する12人剣士(現在は地元入来町に在住の小中高校生が舞っています)は、奈良時代の前後にかけて、隼人族が皇宮12門の警衛にあったことから、衛門隼人を象徴しているとされています。
 
「君が代発祥の地」の看板(大宮神社)
大宮神社(鹿児島県薩摩川内市入来町)
十二人剣舞(大宮神社) 
十二人剣舞(大宮神社)
 
 (3)君が代の原歌
 
君が代の歌詞の原歌、いわばオリジナル・バージョンとして知られているのが、10世紀に編纂された『古今和歌集』(905年〜912年頃完成)に収録されている次の短歌(巻7・賀歌・ 343、読み人知らず)です。
 
 わが君は千代に八千代にさざれ石の巌(いはほ)となりて苔のむすまで
 
〔現代語訳〕
 わが君は千年も八千年も長生きしてして下さい。あの小さな石が大きな岩に
 成長して、その岩に苔が生えるまで。
 
賀歌(がか、がのうた)とは、祝いの気持ちを表した歌で、古今和歌集をはじめ、勅撰集部立ての一つとして、特に長寿を祈る歌が多いとされます。すなわち、このオリジナル・バージョンは、わが君(私の主君)の長寿を祈る、いわばバースデーソングだったわけです。
 
ところが、古今和歌集から 約100年後の『和漢朗詠集』(1018年頃成立)の鎌倉時代初期以降の版本においては『わが君』が『君が代』となっているものが多いとされます。すなわち、時代の潮流で『わが君』という直接的な表現が『君が代』という間接的な表現に置き換わったのではないかと推測されています(君が代 - Wikipedia)。
 
そして、入来神舞の『十二人剣舞』にも『君が代は千代に八千代に・・・』の歌詞が取り入れられたのでした。これが、日本国歌『君が代』の成立につながっていくのです。言い方を変えれば、『君が代は千代に八千代に・・・』を歌う入来神舞の『十二人剣舞』の存在がなかったら、国歌『君が代』の成立もなかったということになるわけです。
   
 (4)薩摩琵琶
 
鎌倉時代の初めに中島常楽院(現鹿児島県日置市吹上町)を建立した宝山検校をはじめとする中島常楽院の歴代の住職によって弾奏された琵琶を源流として、室町時代になると薩摩盲僧から『薩摩琵琶』という武士の教養のための音楽がつくられ、しだいに語りもの的な形式を整えて発展していきました。
 
薩摩琵琶は16世紀に活躍した薩摩の盲僧・淵脇了公がときの領主・島津忠良の命を受けて、武士の士気向上のため、新たに教育的な歌詞の琵琶歌を作曲し、楽器を改良したのが始まりだといわれます。
 
島津忠良(1492〜1568年)は、日新斎(じっしんさい)の号で知られ、『島津家中興の祖』と称され、人間としての履み行うべき道を教え諭した『いろは歌』の創作でも有名です。
 
その儒教的な心構えを基礎とした忠良の教育論は、孫の四兄弟・義久、義弘、歳久、家久に受け継がれ、その後の薩摩独特の士風と文化の基盤となったといわれ、『いろは歌』の精神は後の薩摩藩士の郷中教育の規範となり、現代にも大きな影響を与えているといわれます。
 
薩摩琵琶発祥の地・中島常楽院(現鹿児島県日置市吹上町)
薩摩琵琶
(出典:薩摩琵琶 - Wikipedia)
   
 (5)薩摩琵琶歌『蓬莱山』
  
薩摩琵琶歌『蓬莱山』(ほうらいさん)は、その日新斎が作詞して、淵脇了公に曲を付けさせてできたもので、祝言・戦勝その他の慶賀すべき祝いの席で歌われる薩摩琵琶歌、いわゆる賀歌となりました。
 
      蓬莱山(作詞:日新斎/作曲:淵脇了公)
 
  目出度やな 君が恵みは 久方の 光り閑(のど)けき春の日に
  不老門を立ち出でて 四方(よも)の景色を眺むるに
  峯の小松に雛鶴棲みて、谷の小川に亀遊ぶ
  君が代は 千代に 八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
  命ながらへて 雨塊(あめつちくれ)を破らず 風枝を鳴らさじと云えば
  また堯舜(ぎょうしゅん)の 御代も斯(か)くあらむ 
  斯程(かほど)治まる御代なれば 千草万木 花咲き実り 五穀成熟して
  上には金殿楼閣 甍を並べ 下には民の竈(かまど)を 厚うして 
  仁義正しき御代の春 蓬莱山とは是とかや 君が代の千歳の松も 常盤色
  変わらぬ御代の例には 天長地久と 国も豊かに治まりて 弓は袋に
  劔は箱に蔵め置く 諫鼓(かんこ)苔深うして 
  鳥もなかなか驚くようぞ なかりける
 
   〔用語
   堯舜(ぎょうしゅん)= 中国、古代の伝説上の帝王、尭と舜。
        徳をもって天下を治めた理想的な帝王とされる。
   諫鼓(かんこ)=古代中国で、天子をいさめようとする者に打ち
        ならさせるため、朝廷門外に設けたという鼓。
 
この蓬莱山という琵琶歌は、以後、薩摩の武家屋敷で慶賀の席には付きものの曲として歌われ、いつしか、それが伝統となり、明治に入っても、この琵琶歌を歌えない薩摩藩士はほとんどいなかったといわれます。
 
そして、1869年(明治2年)に当時横浜に駐屯していた英国陸軍第十連隊第一楽隊長のジョン・ウィリアム・フェントンに国歌の必要性を説かれ、歌詞があれば作曲しようと問いかけられた、当時薩摩藩歩兵隊長であった大山巌は、自分の愛唱歌だった蓬莱山の歌詞の中より『君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりて苔のむすまで』の部分を選んで、フェントンに作曲を依頼したのでした。
   
 (6)歴史のつながり
  
では、1870年(明治3年)に横浜で初演奏された国歌・君が代と入来大宮神社(現在の薩摩川内市入来町)は、どう結びつくのでしょうか? 入来の歴史をひも解く必要があります。
 
               入来の歴史
 
入来は、鎌倉時代に関東の豪族として現在の東京・渋谷に城を持ち、また相模の国に勢力をもっていた渋谷氏が、鎌倉幕府から戦勝の恩賞として薩摩国の地を与えられて下向した渋谷五兄弟のうちの一人が根拠地としたところです。
 
渋谷氏は入来院と名乗り、16世紀中期頃に島津の軍門に下りますが、入来院11代当主・入来院重総の娘は、島津日新斎の嫡男で島津氏第15代当主・島津貴久に嫁ぎ(雪窓夫人=せっそうふじん)、島津氏第16代当主・島津義久、その弟の島津義弘、島津歳久を生みます(系図をご参照)。なお、入来の旧武家集住地は200年(平成15年)に国の重要伝統的建造物群保存地区(武家町)に選定されました。
 
系図(島津日新斎 ― 入来院重聡)
入来の旧武家集住地風景
入来の旧武家集住地風景
 入来の旧武家集住地風景
入来の旧武家集住地風景
 
               祝言の席で
 
入来院重総は、娘と貴久の祝言の席で入来の祝い舞である大宮神社の『十二人剣舞』(舞人は皇宮12門の警衛にあたった衛門隼人を象徴しています)を披露しました。
 
その舞に何度も出てくる『君が代は千代に八千代にさざれ石の・・・』という和歌を、日新斎がいたく気に入り、自作の『蓬莱山』の歌詞の中に取り入れたというのです。ゆえに、大宮神社の『十二人剣舞』がなかったら、国歌・君が代の誕生はなかったというわけです。
   
 (7)初代・君が代
  
1869年(明治2年)に当時横浜に駐屯していた英国陸軍第十連隊第一楽隊長のジョンウィリアム・フェントンに国歌の必要性を説かれ、歌詞があれば作曲しようと問いかけられた、当時薩摩藩歩兵隊長であった大山巌は、自分の愛唱歌だった島津日新斎・作詞の薩摩琵琶歌『蓬莱山』(ほうらいざん)の歌詞の中より『君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりて苔のむすまで』の部分を選んで、フェントンに作曲を依頼したわけです。
 
この『初代・君が代』は翌明治3年に横浜妙香寺において薩摩バンドによって演奏されたのですが、メロディ―が洋風であり日本人に馴染みにくかったため普及せず、楽譜が改訂され、1880年(明治13年)に現在の君が代が誕生しました。
 
【参考図書】
・小田豊二著『初代「君が代」』( 白水社 、2018年4月10日発売)

   

  2018.08.29
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