旅行記 | ・耶馬溪(やばけい・大分) |
耶馬溪は、大分県の北部、福岡県との県境に沿って北に流れる山国川(やまくにかわ)の中流に位置します。本耶馬溪町ホームページによると、山国渓(やまくにたに)を転じて「耶馬渓」と名づけたといわれているそうです。また、耶馬溪町ホームページによると、頼山陽がこの地を旅したときに著した詩や絵入りの本に由来するそうです。耶馬溪を訪れたのは、2年前の11月に続いて、今回が2回目です。1回目のときは、車で鹿児島県宮之城からの日帰り旅行だったため、十分に時間が取れず、訪れたのは「青の洞門」だけでした。行くときは、横川ICから日田ICまで高速(九州自動車道・大分自動車道)を利用し、日田から国道212号を行きました。帰りは、折角なので大山町から中津江村を経由して鯛生(たいお)金山に寄りました。そこに着いたのが夕方5時前で、ぎりぎり入場できたほどでした。鯛生金山を出発し、国道387号で大分県と熊本県の県境を越えて菊池に出る頃にはすっかり日が暮れていたのを覚えています。今回は、小倉から国道10号で中津市を通っての日帰り旅行でした。「青の洞門」の他に、1回目に行けなかった羅漢寺、深耶馬溪も訪れ、名物「山かけそば」も頂くことができました。紅葉はあと1週間〜10日後が見頃かなというところでした。それでも、緑のまだ残るなかに色づき始めた紅葉はみずみずしく、それなりの風情があるものです。 (旅した日、2002年11月、2000年11月) |
R10
大分自動車道
九州自動車道
小倉
中津
日田
菊池
熊本
横川
宮之城
鯛生
耶馬溪
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青の洞門と禅海和尚 今から二百三十余年前、この付近は鎖渡(くさりど)と呼ばれ、岩角に並べられた板を踏み、鎖を伝って通行していた。このため人馬は足を踏み外して転落し、死傷することが多かった。越後の僧、禅海和尚は、仏道修行のため諸国遍歴の途中、この地にさしかかり、人々が難渋するのを見て、ついにこの大岸壁を掘り抜こうという一大誓願を起こした。和尚は、村々を廻って熱心に説いたが、これに耳をかす者は誰一人としていなかった。和尚は、独(ひと)り鑿(のみ)と鎚(つち)を手に、大岸壁に向ったのである。村人は、狂人と嘲笑したが、念力堅固な和尚の鎚の音は日に月にさえ、年を重ねるごとに洞の深さを増していった。和尚の不動心はしだいに村人の心に浸み渡り、志用を喜捨したり、洞窟で鑿と鎚を振るう者もあり、仕事は大いにはかどった。和尚の念願に率いられた多くの人々の力が合して30年、ついにこの洞窟は完成した。貫通三百八歩(150m)、以来ここを往来する幾千万の人々は、ことごとく和尚の余徳を受けているのである。今ではこの洞門を彫り拡げ、処々に手を加えて旧態を改めているが、一部はなお昔の面影を留めて、禅海一生の苦心を永久に物語っている。 (観光案内所の横に立ててある案内看板より) |
山国川の支流をたどれば、随所にまるで中国の南宗画を見るような風景が見られます。一目八景は展望台より夫婦岩、烏帽子岩、仙人岩など周囲の景勝八景が一望できる深耶馬溪の代表景勝地です。旅館や食堂があり、土産を売る店が並んでいます。自然薯(じねんじょ、天然の山いも)をかけて食べる純手打ちの「山かけそば」が名物です。店先に順番を待つ人の列ができているおそば屋(「元祖深瀬屋」)が展望台の手前にありました。そこで食べることにして待ちました。中に入るとお客さんで賑わっていました。そば打ちの実演も見られます。おいしいそばでした。土産屋では、そば饅頭のほか、椎茸、こんにゃく、銀杏、柿やなしなど、山の幸を売っています。駐車場入口の露店で売っていた「富有柿」は安くて美味しいでした。 |
(C)新潮社 |
「恩讐の彼方に」について 昔から耶馬溪にまつわる実話伝説を題材に、菊池寛が大正8年(1919)中央公論に発表した短編小説です。耶馬溪にまつわるこの話しは、昔からあったようですが、敵討ち(かたきうち)を否定する内容が江戸時代の道徳に反することからそれまで小説にも芝居にもならなかったらしいです。菊池寛は、近藤浩一路画伯の漫画で、その話を知り、小説にしたと、新潮文庫「藤十郎の恋・恩讐の彼方に」(昭和45年発行)の吉川英治解説に記されています。小説のなかで、禅海は了海(若き日の市九郎)に置き換えられています。物語は、なかなかドラマチックです。市九郎は、主人の愛妾との恋をとがめられ成敗を受けようとした時、逆に主人(浅草田原町の旗本)を殺害してしまいます。愛妾と江戸を逐電(ちくでん)した市九郎は、重ね重ねの悪業を重ね苦悩します。美濃国の真言宗の寺に駆け込んだ市九郎は、了海(りょうかい)と名をかえ、諸人救済の大願を記し、諸国雲水の旅に出ます。享保9年(1724)の秋、羅漢寺に詣(も)うでようと山国川の渓谷にさしかかり、鎖渡しと呼ばれる難所で人馬が命を落とす事故に遭遇します。そして、観光案内看板にあるように大岸壁を掘り抜こうという一大誓願を起こすのです。 |
やがて、19年の歳月を費やして洞門が九分まで竣工(しゅんこう)した頃、当時三歳だった主人の一子実之助(じつのすけ)が敵討ちにやってきます。10年の艱難の末にやっと見つけた「父の敵」を目の前にして、実之助は苦悩しますが、深夜、一人暗中に端座(たんざ)して鉄槌を振るっている了海の姿に接し、ついに相並んで槌を振るい始めるのです。この小説が発表されるやドラマチックな人情話しとして評判になり、小学校の「国語読本」にも取り上げられたりして、耶馬溪の名が全国に知られるようになったようですが、どうも「敵討ち」は作り話しだといわれているようです。洞門竣工後に、禅海は通行税を徴収し一部は羅漢寺に寄付して永代供養の契約をとりかわしたというような「生臭い話し」もあるようです。その辺に敵討ち伝説の火種があったのかも知れません。 菊池寛 明治21年(1888)〜昭和23年(1948)。高松生まれ。小説家、劇作家。文藝春秋社を創立し芥川賞、直木賞、菊池寛賞を創設。文壇の大御所と呼ばれた。 |
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