旅行記  ・宮本武蔵の史跡(2) − 小倉と武蔵   


 若くして小倉藩小笠原家の筆頭家老になる、武蔵の養子伊織とともに小倉へ移った武蔵は、小倉で7年という、60余年の生涯のうちで最も長い期間を過ごし、多くの人に兵法を指南したと伝えられています。また、それ以前に、武蔵の養父・新免無二斎は、同じ小倉藩領内であった豊前(大分県)の中津で道場を開き、兵法指南をしています。小倉にある手向山(たむけやま)には、伊織以後の宮本家代々の墓所があります。伊織のご子孫が現在も北九州にお住まいだそうで、小倉に流れる武蔵のゆかりを感じます。そして、佐々木小次郎も細川忠興公に見いだされて、小倉藩剣術師範を務めたとされており、小倉と深いつながりを持っていたのです。小倉は、当HPの制作者ワシモが単身赴任で今春3年目を迎えた都市です。
                                                                       (2003年4月)         

小倉城 慶長7(1602)年、細川忠興公によって築城され、その後寛永9(1632)年に小笠原忠真公が入る。400年を越す歴史を持つ小倉城。平成15年春、桜満開の日は花曇り。城内では、武蔵ゆかりの品々を紹介する「宮本武蔵展」が開催されていました。
花曇りの日の小倉城天守閣(写真左・中)。開催中の「宮本武蔵展」の案内ポスター(写真右)。「あっ」と驚く小倉城 本当の武蔵が見える! とあります。開催期間は、平成14年12月1日(日)〜平成15年12月23日(火)です。昭和34年(1959)に天守閣が再建され、その後平成2年(1990)に小倉城は全面改装されました。


小倉と武蔵、その経緯
◆中津と養父無二斎
 1598年、武蔵の養父・新免無二斎は故郷・播州(現在の兵庫県)を捨て、黒田官兵衛(備前国邑久郡福岡郷の出)を頼り、豊前(大分県)の中津で道場を開き、兵法指南をします。無二斎は、中津道場がさびれ、1612年に労咳でなくなります。原因は、小倉に道場を持つ佐々木小次郎が中津に出稽古にきて弟子をさらったからだそうです。これが、武蔵が小次郎と手合わせすることになった一因だともいわれているようです。武蔵と小次郎が巌流島で決闘したのは、無二斎がなくなった1612年の4月のことです。

◆細川忠興による小倉城の築城
 小倉城は、明智光秀の娘・がラシャを夫人に迎えたことで知られる細川忠興(ただおき)によって築城された城です。忠興は父・藤孝と共に織田信長に仕え、ガラシャを迎えますが、本能寺の変では光秀方の城を攻撃します。その後は羽柴秀吉に仕えますが、秀吉の死後、石田三成と対立して家康に接近。戦後、功績によって、豊前一国と豊後の一部約40万石を領し、丹後国宮津城より当初豊前中津城に入ります。そのときは、小倉もその中津藩領内の都市ですが、1602年、紫川河口の丘陵に小倉城の築城を開始して移住。ここに小倉藩が成立します。


◆佐々木小次郎
 佐々木小次郎は、諸国武者修行に出て、幾度も高名な兵法者と決闘をしその名をあげます。やがて、小倉に現れ、その評判を耳にした藩主細川忠興公に引き止められ、道場を開きます。


◆細川家から小笠原家へ
 肥後熊本の加藤家が改易になり、二代細川忠利(ただとし)は肥後に移ります。それまで外様ばかりであった九州のおさえとして、細川家とは姻戚関係にある譜代大名の小笠原忠真が、1632年播磨明石から入府します。


◆宮本武蔵
 伊織が忠真公に仕えていたことがきっかけで、1632年の忠真公転封の際、伊織とともに剣客として小倉城に招かれたといわれてます。武蔵は小倉に7年という生涯で最も長い期間を過ごし、その後熊本へ移ります。伊織は小笠原家の筆頭家老に出世します。


吉川英治全集17〜19・宮本武蔵
(講談社 第九刷昭和47年)\780
31年前に購入して読んだもの!懐かしいです。



小倉城庭園 小倉・小笠原藩主の別邸であった下屋敷跡に、平成10年(1998)再現された武家屋敷です。江戸時代の小倉情緒を彷彿させる本格的な書院や日本庭園が鑑賞できます。小笠原礼法をはじめとする礼法に関する展示も行われています。
  


手向山 小笠原藩の家老職にあった伊織が藩主から薪(まき)山として拝領した手向山(たむけやま)。「宮本家代々の墓所」、「小倉手向山武蔵顕彰碑」、「佐々木小次郎の碑」があります。
  


 
宮本家代々の墓所(写真左上)。手向山公園の入口にあります。左より三番目の高い墓石が伊織のものです(個人私有地のため墓地内には入れません)。■佐々木小次郎を称えて建てられた「佐々木小次郎の碑」(写真左下)。昭和26年(1951)に作家の村上元三氏が寄贈したものです。「小次郎の眉涼し つばくらめ 1951年 村上元三」とあります。■手向山山頂から望む関門海峡(写真中上)。左端に見える深緑色の山の右にうっすらと巌流島が見えます。■山頂へ進む道はうっそうとした木々で覆われています(写真中下)。当時、武蔵や伊織もこの道を通ったのでしょう。■武蔵の養子である宮本伊織が建立した武蔵の顕彰碑「小倉碑文」(写真右上)。「佐々木小次郎の碑」と武蔵の顕彰碑「小倉碑文」はすぐ隣りどうしに仲良く建てられています。■手向山はJR小倉駅から東へバスで約20分の、国道3号沿いにある小高い山です(写真右下)。


武蔵の顕彰碑「小倉碑文」
兵法天下無双播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士の碑。通称「小倉碑文」。
 宮本伊織が、父武蔵の業績を伝えるために、武蔵の死後9年経った1654年に建てた高さ3mを越える碑。巌流島での佐々木小次郎との決闘までの剣暦が漢字でぎっしり刻まれています。武蔵の生涯を語るものとして、『五輪書』と並んで重要なものです。碑文の下には武蔵の遺骨と愛用の鏡も埋葬されているそうです。

天仰 実相 円満 兵法 逝去 不絶


碑の最上部に刻まれている文で、武蔵の遺言だと伝えられています。「宇宙・自然の真実の姿が満ち足りて欠けるところが
ないように、兵法の真理も、たとえ私が死んだとしても、永遠
に絶えることはないであろう」という意味に解釈されています。
武蔵顕彰碑の最上部に刻まれた文

【備考】
(1)小倉城の入口に、設置してある「宮本武蔵展」の案内ポスターを撮影し、記載させて頂きました。
(2)本ページの無二斎、佐々木小次郎及び宮本武蔵の記述については、(社)山口県観光連盟作成の観光パンフレッ「山口県伝・佐々木小次郎」を参考にさせて頂きました。