ワシモ(WaShimo)のホームページ
 
旅行記 ・温泉津温泉 − 島根県大田市 2014.05
ゆのつおんせん
温泉津温泉
(世界遺産、重要伝統的建造物群保存地区)
温泉津港
温泉津港 温泉津は読んで字のごとく温泉のある津(港)で、『ゆのつ』と読みます。温泉津港は、北西に向いた深い入り江(幅約 420m、奥行き 1,200m)内に形成された天然の良港で、古には石見銀山からの銀の積出港の1つとして栄えました。現在は、古くからこの地方で産出する硅砂(けいさ)等の地下資源の積出港となっています。
この船溜りの先が温泉街になっています。
温泉津湾のほとり、温泉街の入口に建つ和風調の建物が温泉津観光案内所『ゆうゆう館』(写真下)です。この場所は、江戸時代には温泉津船表番所が、明治時代には温泉津警察署が設置されていたところで、一階は大田市観光協会の観光案内所になっています。二階は歴史資料室となっており、銀の積出港としてにぎわった往時の隆盛を垣間見ることができます。
温泉津観光案内所『ゆうゆう館』
 温泉街
 温泉津温泉街( 二つの共同浴場のある辺り)
温泉津温泉の路地

温泉津の場所−マップ
 
温泉津温泉
温泉津温泉(ゆのつおんせん)は、島根県大田市温泉津町(旧国石見国)にある温泉。温泉津港から山側に伸びる温泉街は、賑やかな歓楽街などは見られず、鄙びた日本旅館が両側に立地する静かな街並みとなっています。
 
この古風な温泉宿が建ち並ぶ温泉街は、2004年(平成16年)、『温泉津町温泉津伝統的建造物群保存地区』の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。はじめは、港町としての選定でしたが、後に温泉町という項目も設けられ、温泉街としては初めての選定となりました。 また、温泉津は、当時中世〜近代に隆盛を誇った石見銀の輸出港でもあったため、日本国内14例目の世界遺産『石見銀山遺跡とその文化的景観』の登録を受けています。(温泉津温泉 - Wikipediaを参考)。
 路地より薬師湯旧館を見る
両側に鄙びた日本旅館が建ち並びます。
開湯は古く1300年前と伝えられ、伝説では、旅の僧が湯に浸かって傷を治している狸を見つけたとか、縁結びの神様大国主命が病気のウサギをお湯に入れて救ったことから始まったともいわれています。戦国時代や江戸時代は、石見銀山から産出される銀の積出港にもなったことから大いに栄えました。
泊まった山県屋の内湯(家族風呂)
外湯(共同浴場)は、『元湯泉薬湯』と『薬師湯』の2箇所あります。両浴場はごく近接した位置で湧出する別々の泉源を用いており、泉質には相違がありますが、両方とも源泉に一切手を加えない、生の温泉が浴槽に入っています。源泉温度は、元湯泉薬湯が49.9℃で、薬師湯が45.9℃だそうです。
『銀山街道 夢海道 温泉津温泉』とあります。
湯の色は、湧出時は透明ですが、湯船では淡茶褐色を呈しています。入浴のほかに飲泉も効果があり、味はやや苦渋く、古くからその効能の高さが知られ、現在もその薬効の高さから入浴者のたえることがないそうです。温泉津町観光協会の公式ホームページによれば、温泉津温泉の宿泊施設として15軒の旅館が紹介されています。
温泉津温泉街を示す看板
元湯泉薬湯
共同浴場『元湯泉薬湯』
『元湯泉薬湯』は、温泉津村草創とも言える老舗で、約1300年という長い歴史を持ち、今でも開湯時からの源泉を利用しています。元湯の裏手に位置する温光寺(写真下)の背後のがけに、温泉を見つけた狸が漬かったとされる源泉跡があり、境内の地蔵堂の地下から元湯の泉源がわき出でいます。
温光寺薬師堂への路地
薬師湯
薬師湯旧館(震湯)のとんがり屋根
もう一つの共同浴場である『薬師湯』は、明治5年(1872年)に発生した浜田地震により別の源泉が湧出をはじめたもので、地震によって湧出したことから『震湯』の別名があります。従前は、『藤乃湯』という名前でしたが、その薬効豊かな湯質と温泉の守りとして薬師如来を祀っていることなどから『薬師湯』になったそうです。
大正8年築の薬師湯旧館(震湯)
現在は、大正8年(1919年)築のレトロ調の洋風建築である旧館(震湯)と、昭和29年(1954年)築の新館が建ち並び、薬師湯は温泉津温泉街でも最も重厚な趣のある建物となっています。薬師湯は、2005年9月付けで、日本温泉協会の新基準による審査の結果、全項目『オール5』の最高評価の天然温泉として認定された100%本物のかけ流し湯温泉です。
大正ロマン溢れる薬師湯旧館のカフェ
大正ロマン漂う薬師湯旧館1階は、『震湯カフェ内蔵丞』(くらのじょう)というカフェになっています。名前は、毛利元就の命を受けて温泉津港の奉行に任命された内藤家初代・内藤内蔵丞の名前に由来するそうです。重厚な雰囲気とアンティークな調度品に囲まれながら、このカフェで頂いたのが、温泉津港の奉行を務めた内藤家に口伝で伝わってきたという『温泉津の奉行飯』。
『温泉津の奉行飯』
温泉津の奉行飯 汁かけご飯に温泉蒸し野菜と温泉たまごがセットになったもの。江戸時代中期に石見銀山を含む大田一帯が飢饉に襲われたとき、当時の代官様が救済のために薩摩より救荒作物であるサツマイモをこの地に伝え、と同時に、薩摩名物の汁かけご飯の調理方法も伝え、以後代々内藤家に受け継がれたのだそうです。当時としては、ぜいたく品の鶏肉とそのだし、卵を使った豪華料理でした。
薬師湯(新館)
たつのごぜんじんじゃ
龍御前神社
龍御前神社
龍御前神社 海神の娘で海の女神とされる豊玉姫命(とよたまひめのみこと)など八神を祀っている神社で、石見銀山華やかなりし頃、頻繁に温泉津港に出入りした北前船の守り神として信仰を集めてきました。神社の拝殿には、船主や船頭により航海の安全を祈願して奉納された船絵馬が掲げられています。社殿の背後には、山の姿勢が巨龍が蟠る(わだかまる)に似た磐窟があって、その腮(あご)に当たる部に建立されていたのが旧御本殿でした。土曜日の夜には、石見夜神楽が催行されています。
巨龍が口を開けた様に見える岩と旧御本殿
内藤家庄屋屋敷
内藤家庄屋屋敷の通り
内藤家庄屋屋敷 温泉津の温泉街の入口にある内藤家。庄屋屋敷とも呼ばれる伝統的建物です。元亀元年(1570年)、内藤家初代は毛利元就の命を受けて、銀搬出の重要拠点である温泉津港口に鵜の丸城を築き、奉行に任命されました。関が原役の後、毛利が石見から撤退すると、温泉津に土着して代々年寄りや庄屋を務めました。
 内藤家庄屋屋敷
その間、廻船問屋、酒造業、郵便局等の経営にも携わりました。延享4年(1747年)に温泉津に大火があり、建築物はその後に建てられたため、主屋は塗籠造(ぬりかごづくり)の耐火建築となっています。温泉津に残る最古の住宅建築で、筑後二百数十年の歳月にわたり、歴史の変遷する温泉津の街を見守ってきました。
特徴のあるなまこ壁
特徴のあるなまこ壁(壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の継ぎ目に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗ったもので、 防火・防水などの目的を持つ)や玄関に掛けられた大きな縄のれん、格子窓や中二階の虫籠窓(むしこまど)などが、温泉津の往時の隆盛ぶりを今に伝えています。
 この通りの先を右折すると温泉街へ行きます。
   旅行記 ・石見銀山(銀山地区)  石見銀山(町並み地区)
あなたは累計
人目の訪問者です。
 

Copyright(C) WaShimo All Rights Reserved.