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旅行記 ・薩摩国分寺跡と大伴家持像 − 鹿児島県薩摩川内市  2012.09
国指定史跡薩摩国分寺跡
薩摩国分寺創建時伽藍想定図(現地案内板を撮影)
薩摩国分寺 聖武天皇は、741年(天平13年)、仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)の建立を命じた。薩摩国分寺は、鹿児島県薩摩川内市国分寺町にあった寺院で、聖武天皇の命で全国におかれた国分寺の一つ。
中門跡(左前方)と金堂跡(右)
発掘結果から奈良時代末期から平安時代初期に建立されたと思われる。早くに衰微したものの室町時代までは「国府天満宮」の神宮寺として存在していた。しかしいわゆる九州征伐で豊臣秀吉軍の襲撃に遭い全焼する。その後、江戸時代になって島津光久により再建され泰平寺の末寺として細々と存続していた。
中門跡
しかし、明治2年の廃仏毀釈で廃寺となった。塔跡だけは早くから見つかっており、明治21年(1888年)礎石が市内の寺に運ばれていたが、昭和19年(1944年)に発見地に戻されて国の史跡となった。昭和51年(1976年)に全区域1.5ヘクタールが史跡に追加指定、昭和60年(1985年)に「薩摩国分寺跡公園」として整備された。
金堂跡
戦後、昭和43年(1968年)から発掘が進められて伽藍の概要が判明した。南北130m、東西120mという区域は他国の国分寺に比べて小規模である。また、伽藍配置は「川原寺式」となっており、異例づくめの国分寺であった。これは薩摩国が都から遠い辺境の地であったことが影響していると考えられる。(以上、ウィキペディアより転載)
塔跡(手前)と金堂跡(前方)
〔中門跡〕中門跡は南北の柱間5間(13.60m)、東西の柱間4間(10.70m)の南北に長い掘立柱の建物跡である。柱穴は、直径0.8m〜1.2mの円形で、その中に直径0.3m〜0.4mの柱痕跡が確認された。建物の東側には掘立柱の回廊跡が確認され、この中門は創建時より遅れて建立されたと考えられる。
回廊跡
〔金堂跡〕金堂は、塔とともに寺院を構成する主要な建物で、本尊仏を安置する仏殿である。創建当時の基壇は、南北16.8m、東西19.5mの大きさの凝灰岩切石による基壇化粧である。建物は創建以来、3回建替えられた可能性があり、創建時の建物は、掘り方や根石などから、南北柱間4間(10.8m)、東西柱間5間(13.6m)の入母屋形式、または寄せ棟形式の構造であったと考えられる。
回廊跡
〔塔跡〕塔の基壇は、8.6m四方の切石積基壇である。側面を地覆石・羽目石・葛石で外装している。礎石の中心に位置する塔心礎は、明治15年ごろ市内の了忍寺に運び出されていたが、昭和19年に現在地にもどされ、同年、国の史跡に指定された。
講堂跡
〔講堂跡〕講堂は、僧侶が仏法を説き、法会(ほうえ)を行ない、写経や読経など学問研鑽に努めた場所である。建物の基礎壇の構築については、2回の地下地業が確認された。創建時が南北14.5m、東西36.2m、再建時が南北11.6m、東西27mである。このように東西に細長いのは、講堂としては古式であり、川原寺(奈良県明日香村)に類似している。
講堂跡と金堂跡(左手前方)
〔築地塀〕築地塀(ついじべい)は、発掘調査の結果に基づき、その一部を復元したもである。薩摩国分寺の寺域は南築地・北築地及び東築地が確認され、南北130m、南東118mと推定されている。築地塀はこの周囲にめぐらされていた。築地塀の両側には溝が掘られ屋根には瓦がふかれていたと考えられる。
築地塀(ついじべい)の一部復元
〔井戸塀〕薩摩国分寺の寺地内では井戸跡が7ヶ所確認された。そのうちの一ヶ所(写真)は直径1.3mの円形状をした井戸で、深さは2.2mぐらいである。床面は岩盤層をくりぬいており、この部分には井戸掘り具(鋤(すき)状掘り具、バチ鍬(くわ)状掘り具の痕跡が縦長に見られた。(以上、現地案内板より)
井戸跡
 
薩摩国府 
薩摩国府 大化の改新(645)によって、大和朝廷は、中央官制のしくみを作り)、全国60余の国を中央集権的に支配しました。古代薩摩の首府として、この地に薩摩国府(薩摩の都)が設置されたのは、およそ1300年前の大宝2年(702)です。薩摩国府の中心には役所(国衙)(こくが))が置かれ、その下に郡を治める郡衙(ぐんが)や、国府を守るための軍団が置かれていました。平安時代以降荘園(私有地)の発達によって、国衙領(公有地)は、次第に減少し、鎌倉時代を経て、ついに国府は廃絶しました。薩摩国府の範囲は、これまでの国府跡発掘調査等により遺物の出土を伝える地域を含め方六町(約109メートル四方が一町)を想定することができます(現地案内板より抜粋)
 
おおとものやかもち
大伴家持
大伴家持像
大伴 家持(おおとも の やかもち、718年頃〜785年)は、奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。父・旅人が大宰帥として大宰府に赴任する際には、母、弟とともに任地に従っている天平12年(740年)聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平18年(746年)に、越中守に任ぜられ、751年まで赴任。この間に223首の歌を詠んだ。帰京後、兵部少輔となり、難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。758年に因幡守。翌年1月に因幡国国府で万葉集の最後の歌を詠む。藤原仲麻呂暗殺計画を立案したとされ逮捕されるが、藤原良継一人が責任を負ったことから、家持は罪に問われなかったものの、薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。天平宝字8年(764年)1月、薩摩守(さつまのかみ、薩摩国府長官)に任命され、天平神護元年(765年)年2月、薩摩守を解任。
大伴家持像
二年後の神護景雲元年(767年)8月、大宰少弐(だざいのしょうに)に任命される。その二年間については任官記事がなく、家持の消息は知る由もないが、少なくとも1年余は、薩摩守として在任したことになる。その後、左中弁兼中務大輔、式部大輔・左京大夫・衛門督と京師の要職や上総・伊勢と大国の守を歴任する一方で、従四位下、従四位上、正四位下と順調に昇進、宝亀11年(780年)参議に任ぜられ公卿に列し、従三位に叙せられた。天応2年(782年)1月に氷上川継の乱への関与を疑われて一時的に解官され都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。同年4月には罪を赦され参議に復し、翌年に中納言に昇進するが、延暦4年(785年)兼任していた陸奥按察使(むつあぜち)持節征東将軍(じせつせいとうしょうぐん)の職務のために滞在していた陸奥国(むつのくに)で没した。歌人としては、長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂にかかわったと考えられている。(ウィキペディアなどを参考)
 
大伴家持像(後方は九州新幹線)
『未来へ語る歴史像』 薩摩守(さつまのかみ) 大伴家持 碑文
律令制による中央の政治支配力が強まり、大宝二年(七〇二)川内の地に、薩摩国府(薩摩国の都)が置かれました。そして、天平宝字八年(七六四)、大伴家持が薩摩守(長官)に任命されました。(「続日本紀」より) 大伴家持は「万葉集」を編纂した三十六歌仙の一人です。また、そのなかに最も多くの歌を残した代表的な歌人で、次の歌は薩摩守に任命される五年前、七五九年に万葉人として最期に詠んだ歌です。
 
     
新しき 年の始の 初春の
     今日降る雪の いや重
(し)け吉事(よごと)
           (万葉集巻二十 四五一六より。因幡守時代に詠む。)
 
大伴家持像は、「従五位上の大伴宿祢
(すくね)家持を薩摩守に任じた。」という続日本紀(巻第二十五)の記述に基づき、この地に置かれた薩摩国府のシンボルとして建立されたものです。この像から川内の歴史が未来に語り継がれていくことを願うものです。
平成一六年二月吉日  題字 川内市長 森 卓朗 
制作 川内市 
(原型・文化課学芸員 小原 浩)
 
 
万葉の散歩道
万葉の散歩道 川内歴史資料館の裏手を流れる銀杏木川(いちょうのきがわ)は、古代より薩摩国府・国分寺や新田神社とともに栄えたこの地を流れてきた小川です。その小川沿いに、『人・まち輝く水景文化都市川内』をめざし、2000年希望ワーク事業『グリーン・オアシス事業(万葉の川筋散策の路整備事業)として、平成14年度までの3か年間計画で『万葉の散歩道』の整備が行われました。万葉集から、大伴家持の歌をはじめ、四季を詠んだ15首を選定し、それらの歌碑が銀杏木川沿いに設置されています。「未来へ語る歴史像−大伴家持−」
大伴家持(森卓朗書)
春の園の紅色に
咲いている桃の花の下までに輝く道に
たたずむ乙女
          
『万葉集』 巻第十九ー四一三九
山部赤人(石塚勝郎書) 
 (あしびきの)山の桜花が、
幾日もこんなに咲いていたら、ひどく恋しくは
思わないだろう
      
『万葉集』 巻第八ー一四二五
 
薩摩目(さつまのさかん)高氏海人(こうしのあま)(平國蔵書) 
  我が家の梅の下枝で
うれしそうにうぐいすが鳴いているわ
散るのを惜しんで
      
『万葉集』 巻第五ー一八四二
 
  作者について(生没年不明)
薩摩目は太初位下相当官。天平二年(七三0)に
薩摩国司に任命されたといわれている。
天平2年( 730年)正月13日、大宰府の長官として赴任中の大伴旅人(おおとものたびと、家持の父、665年〜731年)は大宰府の公邸に31人のお客を招いて、庭に咲く梅を詠み比べる歌宴を催しました。そのときに詠まれた歌32首が『梅花の歌』として万葉集に載り、新しい元号『令和』は、それらの歌の序文として詠まれた歌に由来します。実は、高氏海人のこの歌は『梅花の歌』32首のなかの一つなのです。
 
 
薩摩川内市川内歴史資料館(万葉の散歩道から見る)
薩摩川内市川内歴史資料館 川内地域は薩摩の中心で、かつて国府の置かれた土地です。川内歴史資料館は、北薩の中心として,あるいは薩摩の中心として発展してきた川内地方の歴史と民俗に関する資料を収集・保存し、これを展示して皆様に役立てていただくことを目的とし、昭和59年(1984)に開館しました(公式ホームページより)
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