♪御伽草子
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旅行記 ・新田神社御田植祭 − 鹿児島県薩摩川内市 2011.06.05
新田神社御田植祭
 新田神と新田境内にある保食神社で神事が終ると、神主を先頭に稲の苗を運びます。
 苗は小さな子供たち(園児)がかついで行列して神田まで行きます。
雨が降っていて歩き難そうですが子供たちの行列は粛々と進みます。
 苗を運ぶ子供たちの行列が神田に着きました。
氏子の代表らによってまず一番苗が植えられます。
そして、早男(さおとこ)と早乙女(さおとめ)が一列になって苗を植えていきます。
隣りの田んぼでは『宮内奴振踊り』の奉納です。
 
この踊りは、大きな纏(まとい)についたへぎ竹(竹を薄く削ったもの)を回転させて踊るもので、田んぼにつく虫を追い払うしぐさを意味しています。その後、新田神社境内にある保食神社で御田植に伴う諸神事が行われ、古式ゆかしい衣装に身を包んだ早男(さおとこ)と早乙女(さおとめ)が一列になり、神田にて苗を植えていきます。
  
今年(2011年)、南九州は昨年より20日も早く5月には梅雨にはいり、新田神社御田植祭は雨の中での実施となりました。祭りを演じる人、スタップの方、そして見物客も雨で大変でしたが、田植の雰囲気にお似合いの天候ではありました。この一年の
五穀豊穣と無病息災を祈りたいです。
  新田神社と御田植祭 
鹿児島県薩摩川内(せんだい)市街を一望する小高い神亀山(しんきざん)の山頂にある新田(にった)神社は、邇邇芸尊(ににぎのみこと)を主祭神とし、天照大神(あまてらすおおみかみ)と天押穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)を祀った旧薩摩藩を代表する神社です。神亀2年(725年)に創建されたと伝えられ、薩摩国一の宮として古来から南九州の人々に信仰されてきました。この新田神社で6月上旬に行われるのが、五穀豊穣を祈願する『御田植祭(おたうえさい)』です。新田神社で本社祭の神事のあと、倉野、宮内地区に伝わる県の指定無形文化財である奴振踊り(やっこぶりおどり)の奉納が行われます。
ヘギ竹の纏(まとい)を力いっぱい廻します。
纏には7本の長いへぎ竹が付いてます。踊り手は小学生でしょうか。
早男(さおとこ)は、白装束に烏帽子(えぼし)姿です。
早乙女(さおとめ)は、紅襷(たすき)掛けにすげ笠姿です。
kak『田植えひも』には植える位置の目印があるので、まっすぐ等間隔に植えられます。
馴れない中腰の姿勢ですから、腰が痛いのではないでしょうか。
いよいよ田植えも終わりに近づきました。
田植えが行われている間道路では、『倉野奴振踊り』が奉納されました。
 
新田神社
新田神社は、邇邇芸尊(ににぎのみこと)を主祭神とし、天照大神(あまてらすおおみかみ)と天押穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)を祀った神社で、境内には邇邇芸尊(ににぎのみこと)の陵である『可愛山陵(えのさんりょう、えのやまのみささぎ)』があります。
 
『邇邇芸命(ににぎのみこと)』
(神話における記述)
ニニギ、ニニギノミコト。多くの漢字表記があるが、一般には、瓊瓊杵尊や瓊々杵尊、邇邇芸命(ににぎのみこと)と書かれる。農業の神として信仰されており、新田神社の他、霧島神宮(鹿児島県霧島市)、高千穂神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町)、築土神社(東京都千代田区)、射水神社(富山県高岡市)、子安神社(三重県南牟婁郡紀宝町)などに祀られている。天照大神の子である天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)と、高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫命(萬幡豊秋津師比売命)の子。兄に天火明命(あめのほあかり)がいる。天照大神の命により、葦原中国(あしはらのなかつくに、日本の国土のこと)を統治するため高天原から地上に降りたとされる。これを『天孫降臨』と呼ぶ。この降臨の経路の解釈ついては、日向国の高千穂峰に降り吾田国(現在の南さつま市)の長屋の笠狭碕に到達したとする説が有力である。そこで大山祇神の娘である木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)を娶り、火照命(海幸)・火闌降命・彦火火出見尊(山幸)を生んだ。彦火火出見尊の孫が神武天皇である。尚、木花之開耶姫は、現在の鹿児島県南さつま市金峰町周辺の阿多隼人の出身であるといわれている。邇邇芸命は、亡くなった後は『可愛の山陵』に葬られた。埋葬地である『筑紫の日向の可愛の山陵』の伝承地は南九州各地にある。明治政府はその中から、旧薩摩藩の学者の意見を参考にして、明治7年に鹿児島県薩摩川内市の新田神社が可愛山陵であると治定した。(以上、ウィキペディアより抜粋)
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