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旅行記 ・旧永山武四郎邸を訪ねて − 札幌市  2012.07
永山記念公園
永山記念公園・入口
屯田兵制度の育ての親として知られ、鹿児島に帰ることなく北海道に身を埋めた永山武四郎、その名は、鹿児島よりむしろ北海道で広く知られています。その永山盛弘の旧私邸を、永山記念公園に訪ねました。かつて開拓使麦酒醸成所(その後サッポロビール)のあった跡地は、現在サッポロファクトリーになっています。
遊水路と広場
北海道庁旧本庁舎へつながる北3条通りに面したこの一帯は、かつて開拓使の事業所群が建設されていたところで、サッポロファクトリーの東に隣接している緑地公園が永山記念公園です。永山武四郎の私邸が保存されているとともに、子供たちのための遊具設備のほか、遊水路や広場が整備され、市民の憩いの場ともなっています。
旧永山武四郎邸
旧永山武四郎邸・正門
永山 武四郎(1837〜1904年)
  永山 武四郎(1837〜1904年) 天保8年(1837年)、現在の鹿児島市に薩摩藩士の四男として生まれる。戊辰戦争に従軍。明治5年(1872年)から開拓使に移り、北海道開拓使八等出仕となる。明治10年(1877年)に屯田兵第1大隊長に就任し、堀基大佐の指揮のもと、西南の役に従軍する。戦争から帰還した後は屯田事務局長へ累進。その後、1年間の欧米出張をへて明治21年(1888年)第2代目北海道庁長官。明治22年(1889年)屯田兵司令官、明治29年(1896年)第7師団長に就任。同年、陸軍中将に進級。軍を退役した後は貴族院勅選議員を務めるが、明治37年(1904年)議会出席の為上京中に倒れ、5月27日薨去する。死を悟った武四郎は親しい者たちに『我が躯は北海道に埋めよ。必ずやかの地をロシアから守らん』と述べたという。この遺言により北海道札幌市豊平墓地に葬られた。後に里塚霊園に改葬される。現役時代は屯田兵を掌握し軍部内では一大勢力だったが、本人に政治的野心はなく、中央の政治抗争のためにその力を行使することはなかった。終生北海道を案じ、その身を捧げた武人であった。永山神社(北海道旭川市永山地区)・北海道神宮末社開拓神社(札幌市)に祀られ、永山神社には銅像が建立されている。武四郎の生誕の地である鹿児島県鹿児島市薬師にはそれを記す説明板が設置されている。(以上、ウィキペディアを参考)
旧永山武四郎邸(南側、木造の邸宅部分)
永山武四郎が住む邸宅として、明治10年(1877年)代の前半に建設された建造物で、現在は南側の木造の邸宅部分とともに、緑色の屋根が特徴的な洋館の木造クラブが連結した建造物ですが、明治時代に創設された当初から南側の木造の邸宅部分のみが武四郎の邸宅でした。
旧永山武四郎邸(南側、木造の邸宅部分)
邸宅部分は、南側の書院座敷と、北側の西洋建築の建物にある応接室を直結させた和洋折衷の造りで、建築当時の北海道開拓時代において西洋建築が住宅に用いられた先駆的な例となっています。なお、建造物の仔細なデザインなどから、邸宅の設計にあたったのは、当時の開拓使工業局の手によるものであるとされています。
木造クラブ部分(左奥)と木造の邸宅部分(右手前)
1904年に永山武四郎が逝去すると、1911年に三菱合資会社により買収され、北海道の起業準備や炭鉱事業の調査を行う中心的役割を担う施設となりました。1913年に道路用の敷地として約313坪の土地が札幌市に寄贈され、1937年前後には(株)三菱鉱業セメントによって建物の2階部を含む木造クラブが新たに建設されました。
旧永山武四郎邸(洋館の木造クラブ部分)
1986年度より、札幌市で旧永山武四郎邸周辺の再開発事業が開始され、歴史的なまちづくりを推し進める目的で、北海道の開拓時代ゆかりの建造物である邸宅とその周りの庭園を譲り受けました。その後、庭園やその周辺地域の整備、並びに邸宅そのものの修復・修繕工事が行われ、記念公園が設立され、現在に至っています。
上川離宮
北海道庁長官となった武四郎は北海道でも特に内陸部の開発に着目した。就任前には先代長官の岩村通俊と共に上川原野を視察した。ここに屯田兵村を設置するが、この村は明治23年(1890年)永山村と名前を変える。この名は武四郎に由来するものである。さて、本州からの移住を促進する為に上川の地に東京・京都に並ぶ「北京」を作る構想を先代岩村から受け継いだ武四郎は、政府に働き掛ける。政府からは好意見も聞こえたが、法制局の反対にあいこの計画は退けられる。かわって上川に離宮を設ける案が浮上する。予定地は現在の旭川市神楽岡。明治天皇の裁可を得たこの計画は明治22年(1889年)に宮内省をへて閣議決定される。離宮が出来るとなると旭川の評価は高まり、神楽岡の一帯を御料地に指定し明治23年(1890年)には前述の永山村に加え旭川村・神居村が開村、明治25年(1892年)には永山神社が創建される。入植者は一気に増え開発が進むが、札幌・小樽方面の反発と日清戦争の始まりによって計画が頓挫してしまう。上川神社境内には武四郎の歌碑と、記念碑が建立され今に伝わる。(写真とも、ウィキペディアより転載)
【参考サイト】
(1)永山武四郎 − Wikipedia
(2)旧永山武四郎邸 − Wikipedia

(3)屯田兵育ての父・・北海道を愛した永山武四郎の生涯(北海道・マサチューセッツ協会)
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