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旅行記 ・川尻を訪ねて − 熊本市  2013.02
川尻の町並み
慶応3年(1867年)創業の酒蔵『瑞鷹』(ずいよう)の通り
熊本市街中心部から車で約20分南下すると、熊本市川尻(かわしり)町があります。国道3号と平行して走る県道50号をメインストリートに。新旧の商店が建ち並びます。そのメインストリートから加勢川に沿う小道に一歩入ると、かつて”商人の町・職人の町”として栄えた川尻の面影をみることができます。
酒蔵『瑞鷹』の建物
川尻は、奈良・平安時代から自動車が普及する昭和まで、加勢川の水運によって栄えた町でした。加藤清正によって軍港および年貢米の積み出し港として整備され、続く細川氏の時代には、熊本、八代、高瀬、高橋とともに肥後五ヶ町の一つに数えられました(1)。港界隈には回船問屋や旅籠、料亭が軒を連ね、刃物、桶、染物などの職人が腕を競いました(1)
 
船着場跡
(国の史跡)
現存する長さ150mの13段積み石段
当時の面影を今に伝えているのが、『御蔵』(おくら)として親しまれている『外城蔵跡』(とじょうぐらあと)と『船着場』です。この2つの史跡は、平成22年(2010年)夏、国の史跡に指定されました。『御蔵』は約590m2の大きさで4つのドアを持つ『四戸蔵』と、その半分程の大きさの『二戸蔵』の二棟が並んで建っています。
加勢川と13段の石段(鉄橋はJR鹿児島本線)
『船着場』は、江戸時代、年貢米や農産物、日用品などの船荷の積み下ろしのために設けられたものでした。加勢川の右岸に、長さ150mにわたって13段の石畳が当時のまま残っています。明治初期の記録には、年間1000隻をを超える船往来していたことが記されているそうです。
船着場から加勢川上流を見る
船着場からさらに下流には、『御船手渡』(おふなてわたし)という軍港がありました。平成21年(2009年)に船着場から御船手渡の間に散歩道が整備され、のんびり川岸を散策することができます。
 川尻の御蔵
(国の史跡)
『川尻の御蔵碑』案内柱
川尻の御蔵(かわしりのおくら)とは、江戸時代に肥後細川藩が作った、米蔵のひとつで、国の史跡に指定されています。肥後細川藩の年貢米の倉庫は、川を活用した水運で繁栄した川尻の他に、熊本・高瀬(現在の玉名)・八代・大津・久住・鶴崎と、領内に7か所存在しました。
 
この川尻の御蔵は現在の川尻公会堂付近に東蔵、その中に中蔵、さらに西側に外城蔵(とじょうぐら)と、三つずつの倉庫群がありました。1680年(延宝8年)の建築となっているそうですから、330年余の風雪に耐えてきたことになります。年貢米納入も明治に入って廃止され、東蔵・中蔵は取り壊されました(2)
船着場から加勢川下流を見る
残る外城蔵だけは現存しており、約二万俵(推定)ほど納入できる『二百坪蔵』と『六十坪蔵』の2棟で、棟瓦の九曜の紋章や柱の手斧の跡が残っています。二百坪蔵は、4つの扉を持つことから『四戸蔵』、六十坪蔵は『二戸蔵』とも呼ばれています。
六十坪蔵(二戸蔵)
この外城蔵は、明治2〜3年までは米蔵として使われ、その後は農協倉庫として使われていました。日本国内で現存する藩制時代の蔵は、鳥取県湯梨浜町にある橋津の藩倉、岩手県盛岡市の南部藩倉、熊本県宇土市御倉床藩倉が確認されており、平成22年(2010年)5月、川尻において『御蔵サミット』が開催されています。
二百坪蔵(四戸蔵)
日和見山 
日和見山の案内板
南洲翁本営跡
南洲翁本営跡
川尻はまた西南戦争(または西南の役)の舞台となった場所でもありました。明治10年(1877年)2月15日、大雪の中、鹿児島を出発した薩軍は、陸路で熊本入りし、2月20日先鋒隊が川尻に到着し熊本鎮台攻略の拠点を置き、本陣としました。翌21日には西郷隆盛も到着しました。以後、4月12日官軍に占領されるまで川尻は、薩軍の兵站(へいたん、戦闘地帯から後方の、軍の諸活動・機関・諸施設の総称)基地となりました。
『明治十年戦役南洲翁本営跡』の碑
西郷はこの地に宿営し、ここに『新政大総督、征伐大元師西郷吉之助』の表札をかかげ、熊本城攻撃のための本陣を置きました。(以上、現地案内板を参考) この建物は『今村』という表札が掛けられ、民家として現在も使われています。今村さんはこの家の代々の持ち主で、当時は呉服商や廻船問屋をやられていたようです。
七代目若松屋 
船着場と薩軍本陣跡の案内標識
南洲翁本営跡の右隣、船着場跡の左隣に『七代目若松』という看板をあげているのは老舗のうなぎ屋さん。”七代目”とはいかにも宣伝効果大、思わず店に入ってしまいました。安政年間(1854〜1860年)創業といいますから、160年間にわたって受継がれてきた老舗の味は絶品でした。創業時代からうなぎは地元産ではなく、各地から取り寄せだったようです。ちなみに、今は鹿児島産だそうです。七代目の奥様から川尻についての資料も頂きました。川尻の街は、国道3号から少し入ったところにあります。近くを通る機会がありましたら、寄り道して散策とちょっとグルメ贅沢をしてみませんか? 川尻は老舗の菓子屋さんもたくさんあるところです。ちなみに写真は、蒲焼御前・梅(2600円)。
うなぎの『七代目若松屋』
延寿寺
(薩軍本営並野戦病院跡)
天台宗寺院『延寿寺』
延寿寺 加勢川に近い場所にあるこの寺は、鎌倉時代の建久(1190〜1199年まで)の頃、川尻の荘(しょう)の地頭となった河尻三郎源実明が河尻家の祈願所として建立した天台宗寺院であり、境内には豪潮律師が建立した宝篋印塔があります。
延寿寺案内板
薩軍本営 明治10年西南の役には西郷隆盛が軍隊を率いてこの地に入り、はじめこの寺に本営を置きました。2月21日、ここで薩軍は西郷をまじえた軍議を開き、熊本城強襲を決したということです。後にこの寺は、薩軍の兵站(へいたん)基地となりました。
西南の役の案内板
野戦病院 延寿寺はさらに野戦病院となりました。そのため各地から薩軍の戦死傷者がこの寺に運ばれ、その世話がされました。戦病死者853名がこの延寿寺に埋葬され、当時その墓は薩州墓と呼ばれていたそうです。寺門を入ってする左手に『薩軍本営並野戦病院跡』と刻銘sれた石碑が建てられています(写真下)。
薩軍本営並野戦病院跡の石碑
後年、薩軍戦没者の遺骨は、そのほとんどが遺族によって故郷に改葬され、その後この地には、三州会(薩摩・大隅・日向)により『西南役薩軍戦没者墓碑』(写真下)が建立されました。以降毎年4月には碑前で慰霊祭が執り行われています。
西南役薩軍戦没者墓碑
【参考資料およびサイト】
(1)くまにち あれんじ(210年8月21日土曜日)
(2)川尻(熊本市)- Wikipedia
 
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