♪平均律第12番(バッハ)
Piano1001

   
   
旅行記 ・広島平和記念公園を訪ねて − 広島市  2010.08
 原爆ドーム
原爆ドーム(写真上) 
ライトアップされた原爆ドーム(写真上)
しかし、爆風が上方からほとんど垂直に働いたため、建物の壁の一部は倒壊を免れ、最上部に円蓋鉄骨が残りました。この円蓋鉄骨の形から、いつしか市民から、『原爆ドーム』と呼ばれるようになりました。1996年、ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録。“二度と同じような悲劇が起こらないように”との戒めや願いをこめて、とくに『負の世界遺産』と呼ばれています。写真右は、被爆の体験をもつ広島と長崎の両ライオンズクラブが建立した『平和祈念碑』
広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える被爆建物である『原爆ドーム』(Atomic Bomb Dome)は、もとは、広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていました。昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機が、人類史上最初の原子爆弾を投下。原爆は、広島県産業奨励館の南東約160m地点の上空約600mでさく裂し、建物は大破・全焼、館内にいた全員が即死しました。
ライオンズクラブ建立の『平和祈念碑』(写真下)  
   
 原爆犠牲ヒロシマの碑
『原爆犠牲ヒロシマの碑』(写真上)
 天が まっかに 燃えたとき わたしの からだは とかされた ヒロシマの 叫びを ともに 世界の人よ
原子爆弾のさく裂によって悲惨な死をとげた犠牲者たちをしのぶ『ブロンズ像』と熱線を浴びて溶かされた『原爆かわら』とで構成されている『原爆犠牲ヒロシマの碑』は、広島の高校生たちが、平和学習活動として、原爆ドームそばの元安川の川床から原爆の熱線で焼け焦げた原爆がわらを掘り出して収集したことがきっかけとなって建てられたものです。上の碑文が刻まれています。
    
    
平和の鐘
平和の鐘(写真上)
  この梵鐘、鐘堂は広島の悲願に立って、すべての核兵器と戦争のない、まことの平和共存の世界を達成することをめざし、その精神文化運動のシンボルとしてつくりました。この梵鐘、鐘堂は、平和を願う万人の心と浄財を結晶させてつくりました。この鐘の音を、広島から、世界のすみずみまでひびきわたらせ、全人類の一人ひとりの心にしみわたらせることを願っております。この趣旨、目的を御理解の上、平和への願いをこめておつき下さい。
   
昭和39年9月20日建之
           広島悲願の会
鐘の真下に置かれた紙飛行機(写真上)
鐘の表面には『世界は一つ』を象徴する、国境のない世界地図が浮き彫りにされています。
  
鐘楼の回りの池にはハスの葉が青々と茂っていましたが、このハスは、被爆当時、
ハスの葉で傷をおおい、火傷の痛みをしのいだという被爆者の霊を慰めるために植えられたものだそうです。鐘の真下には紙飛行機が置かれていました。
   
  
 Hope for Peace
     愛する世界に

 
  Hope for Peace
     千の風にのって
  鐘楼の回りに植えられたハス(写真上) 
              
 原爆の子の像
『原爆の子の像』(写真上)
この像は、2歳の時に被爆した佐々木禎子さんが、10年後に白血病で亡くなったことをきっかけに、同級生たちが、『原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑をつくろう』と呼びかけ、全国の3,200余りの学校や世界9ヶ国からの寄付などにより、昭和33年(1958年)5月5日に完成したものです。 像の高さは9メートルで、その頂上には折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、平和な未来への夢を託しています。側面には少年と少女の二体の像が配されています。像の下に置かれた石碑には、『これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための』という碑文が刻まれています。塔の内部に、ノーベル物理学賞受賞者である湯川秀樹博士の筆による『千羽鶴』、『地に空に平和』の文字が彫られています。この鐘と金色の鶴は、平成15年(2003年)に複製されたものです。 広島市
      
      
 原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)
『原爆死没者慰霊碑』(写真上)
建立:昭和27年(1952年)8月6日/建立者:広島市/設計者:丹下健三(当時・東大助教授)/建立の目的:世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を平和都市として再建することを念願して設立/碑文:『安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから』 
 
広島平和記念資料館
平和の灯から原爆死没者慰霊碑を見る。背後が『広島平和記念資料館』(写真上) 
 
原爆投下 1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分
 午前8時15分で止まったままの時計(写真右)
(広島平和記念資料館蔵)
昭和51年(1976年)8月、大阪府羽曳野市の
川越明人さんが寄贈したもの
僕の目の前を赤トンボがすいすいとんでいって
前の塀の上にとまった。
僕は立ち上がり、ボウシを手にもつと、
赤トンボをとろうとして
手をのばしたとたん・・・・・・

 (広島平和記念資料館・展示資料より)
止まったままの時計(写真上) 
焦土と化した爆心地付近(写真上)
 
被爆直後
1枚目の写真(撮影:松重美人)(写真上)
 
松重美人氏 〜 被爆当日の写真 
松重美人氏(1913年〜2005年)は、 広島原爆投下当日の市街地の様子を撮影したほとんど唯一の人で、被爆当日の記録写真として5枚の写真が今日に伝えられています。
1枚目〜2枚目 - 御幸橋西詰にて午前11時過ぎに撮影
爆心地より南南東約2.3kmの宇品警察署管内千田町派出所前に急設された臨時治療所の様子を撮影。多数が橋の欄干近くにしゃがみ込んでいます。凄惨な光景だったため松重氏は1枚目を撮影するまでかなり躊躇したといわれます。2枚目は、かなり被爆者に接近して撮影したもので、この時にはファインダーが”涙にぬれていた”そうです。

 
1枚目のシャッターを切るまでに30分はためらいました。1枚シャッターを切ると不思議に心が落ち着き近づいて撮ろうと思うようになりました。10歩ほど近づき2枚目を撮ろうとファインダーを覗いてみるとあまりにもむごく、涙でファインダーが曇りました。 出典/なみだのファインダー 著/松重美人氏 発行/ぎょうせい
(広島平和記念資料館・展示資料より)
 
5枚目 - 皆実町三丁目交差点付近を午後5時頃撮影
爆心地より南南東2.4kmの皆実町六丁目電停の付近で、宇品警察署の巡査が罹災証明書の発行にあたっている様子が撮影されています。
 
2枚目の写真(撮影:松重美人)(写真上)
        
三輪車と鉄かぶと
『三輪車、鉄かぶと』(写真上) 
三輪車、鉄かぶと
銕谷信男氏寄贈
爆心地から1,500m 東白島町

   
銕谷伸一ちゃん(当時3歳11ヶ月)は、三輪車乗りが大好きでした。 あの日の朝も、自宅の前で遊んでいました。その時です。ピカッと光り、伸一ちゃんと三輪車は焼かれてしまい、伸一ちゃんはその夜、死亡しました。お父さんは、たった3歳の子を一人お墓にいれても、さびしがるだろうと思いました。そこで、死んでからも遊べるようにと伸一ちゃんの亡骸とこの三輪車を一緒に自宅の裏庭に埋めたのです。それから40年が過ぎた1985年(昭和60年)の夏、お父さんは、伸一ちゃんの遺骨を庭から掘り出して、お墓に納めました。伸一ちゃんとともに庭で眠っていたこの三輪車と鉄かぶとは、平和記念資料館に寄贈されました。
(広島平和記念資料館・展示資料より)
  
 救援・救護活動
5枚目の写真(撮影:松重美人)(写真上)
罹災証明書を書く警察官
爆心地から2,500m 皆実町三丁目 専売局角
1945年(昭和20年)8月6日午後5時ごろ

   
宇品警察署の巡査は
自ら負傷しながらも被災者に罹災証明書を発行しました。当時この証明書があれば戦時非常用の救援食糧の配給をうけることができたのです。
 (広島平和記念資料館・展示資料より)
いち早く始まった救援・救護活動 〜 全市が壊滅状態のなかで、被害が少なかった宇品の陸軍船舶司令部所属部隊(通称「暁」部隊)は被爆直後から独自の救護活動に入り、消火・救難活動や負傷者の似島への輸送ないを行いました。
  
その秋
『75年間は草木も生えない』といわれた広島で
新しい芽が息吹きました
焼け跡によみがえった緑に人びとは生きる勇気と
希望をとりもどしました

 (広島平和記念資料館・展示資料より)
焦土に咲いたカンナの花(写真上) 
観覧後アンケートに答える入館者(写真上) 
  
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