♪平均律第12番(バッハ)
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旅行記 ・宮沢賢治を訪ねて − 岩手県花巻市  2010.03
 宮沢賢治
羅須地人協会
移設復元された羅須地人協会の住宅(写真上)
羅須地人協会(花巻農業高等学校)(写真上)
協会とはいっても、実質的には賢治一人の手になる私塾であり、賢治は昼間周囲の田畑で農作業にいそしみ、夜には農民たちを集め、科学やエスペラント、農業技術などを教えました。また、自らが唱える農民芸術の講義も行われたといわれます。しかし、『若者に社会教育を行っている』という風評から協会の活動に関して花巻警察署長の聴取を受けたため、賢治は翌年3月をもって協会としての活動を休止しました。
羅須地人協会
教員として勤務していた岩手県立花巻農学校(現・花巻農業高等学校の前身)を1926年3月に退職した宮沢賢治(1896年8月27日〜1933年9月21日)は、同年4月より、実家から約1.5キロ離れた花巻川口町下根子桜(現・花巻市桜町)にあった宮沢家の別宅を改造して自給自足の生活を始めます。そして、同年夏、周囲の若い農民とともに設立したのが羅須地人協会(らすちじんきょうかい)でした。
羅須地人協会の住宅の内部(写真上)
花巻農業高校の生徒によって上書きされ続けている黒板(写真上)
宮沢賢治の銅像(橋本堅太郎・作)(写真上)
羅須地人協会の住宅は、賢治の没後、人手に渡ってに現在の場所に移築されたが、1969年(昭和44年)に花巻農業高等学校の用地の一部として買い取られ、復元整備の上で『賢治先生の家』羅須地人協会として一般に公開されています。玄関横の黒板には、賢治の筆跡を模した『下ノ 畑ニ 居リマス 賢治』の文字が、花巻農業高校の生徒によって上書きされ続けています。〜以上、フリー百科事典『ウィキペディア』より部分的に抜粋。
その後も賢治は別宅(羅須地人協会の住宅)で農業指導の活動を続けましたが、1928年(昭和3年)夏、農業指導に奔走したなかで健康を害し、実家に戻って療養することとなりました。私塾が羅須地人協会の名称で活動したのは約7ヶ月でしたが、賢治がその前後を含め羅須地人協会の住宅で独居生活を送った時代は、賢治の生涯の中で直接農業指導に携わり、自らの理想の実現を目指した点で象徴的な意味を持つものであったと言われています。
岩手県立花巻農業高等学校(写真上)
花巻市郊外の風景
イギリス海岸の駐車場から望む花巻市郊外の風景(写真上)
イギリス海岸
イギリス海岸の標石(写真上)
現在は、北上川のダムによる河川管理が進み、水位が特に下がった時期だけ泥岩層が露出するそうです。この『イギリス海岸』のイメージは、『イギリス海岸』などの短編や詩や童話に登場するほか、『銀河鉄道の夜』にも『プリオシン海岸』の名で登場し、賢治は、『イギリス海岸の歌』という曲まで作詞作曲しています(3)

  
『夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処(ところ)がありました。それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。・・・・』
〜短編作品『イギリス海岸』(2)より『イギリス海岸』は、北上川西岸に、イギリスのドーバー海峡に面した白亜の海岸を連想させる泥岩層が露出することにちなみ、宮沢賢治が名付けた岸辺です。


        
イギリス海岸(※下の方の写真は観光案内板を撮影)
宮沢賢治詩碑
花巻農学校教室の賢治(写真上)。〜現地案内板を撮影
賢治の手帳の『雨ニモマケズ』 〜現地案内板を撮影
賢治の作品としては最初の文学碑ですが、有名な冒頭部分ではなく、『野原ノ松ノ』以下の後半部分が刻まれています。揮毫は生前より賢治を評価していた高村光太郎が当たりました。ただし、脱漏があることが後に判明し、1946年に戦時中から花巻に移住していた高村光太郎自身の手で追刻されています。詩碑の下には文圃堂版の全集や賢治の遺骨の一部も納められています。現在、花巻市で『賢治詩碑』というとこの碑のことを指し、バス停の名前にもなっています。1946年以降、毎年賢治の命日である9月21日の夜に、碑前で『賢治祭』が行われています。〜以上、フリー百科事典『ウィキペディア』より
『雨ニモマケズ』の詩碑
宮沢賢治は1926年3月に花巻農学校を退職し、4月には宮沢家の別宅のあったこの場所(現・花巻市桜町)に移り、独居自炊で農耕生活をはじめ、『羅須地人協会』を開設して農民に化学・土壌等の講義をしました。『雨ニモイマケズ』の詩碑は、賢治の死去から3年後の1936年11月21日に、別宅(羅須地人協会)跡に建立されたものです。
高村光太郎の筆による『雨ニモマケズ』の詩碑(写真上)
宮沢賢治記念館とイーハトーブ館
宮沢賢治記念館(写真上)
『銀河鉄道の夜』を連想させるオブジェ(写真上)
宮沢賢治記念館駐車場の中にある教会風の建物が、レストラン&土産の『山猫軒』(写真下)です。地元の企業が経営している店で、店名は賢治の童話『注文の多い料理店』にちなんでつけられています。花巻の豊な食材を利用した山猫ぞうすいや山猫すいとんなどの人気メニューがあるそうです。入口に、『どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません。営業中』とあります。
宮沢賢治記念館
宮沢賢治記念館は、宮沢賢治の世界に親しんでもらうために建てられた花巻市の施設です。1982年(昭和57年)9月21日の賢治の命日に開館しました。愛用のチェロや自筆原稿など賢治ゆかりのものの展示のほか、ビデオやスライド、図書資料などで賢治宇宙にアプローチすることができます(4)
『よたかの星』の彫刻碑(写真上)
賢治の童話『注文の多い料理店』をモチーフにしたレストラン『山猫軒』(写真上)
賢治記念館などへの案内標識(写真上)
『宮沢賢治イーハトーブ館』(写真右)は、宮沢賢治に関するさまざまなジャンルの芸術作品、研究論文を数多く収集し分かりやすく整理したものを一般に公開している施設です。賢治作品の愛好者、研究者の集まりである『宮沢賢治学会イーハトーブセンター』の本部があります(5)(6)
宮沢賢治イーハトーブ館
『イーハトーブ』とは、『岩手』(歴史的仮名遣では”いはて”)をもじってつくられた宮沢賢治による造語で、賢治の心象世界中にある理想郷を指す言葉です(1)。この言葉は、賢治の作品とともに広く知られるようになり、『TVイーハトーブ』というように、事物の名称にも使われています。
宮沢賢治イーハトーブ館(写真上)
オブジェ
新花巻駅前広場の『セロ弾きのゴーシュ』の彫刻碑(写真上)
イーハトーブ館の近くで(写真上)
セロを弾くゴーシュのまわりに、猫、かっこう、狸の子、野ねずみの親子といった童話の登場人物が配置されています。人が碑に近づくとセンサーが感知して、童話の中で猫がリクエストしたシューマン作曲の『トロイメライ』がチェロ演奏で流れる仕掛けが面白いです。
宮沢賢治記念館やイーハトーブ館の建てられている敷地内などには、賢治の童話にゆかりのオブジェがいろいろと見られて楽しいです。
  
駅前の広場には、石造りのレリーフ彫刻の
『セロ弾きのゴーシュ』の彫刻碑(写真上)があります。
イーハトーブ館の近くで『どんぐりと山猫』(写真上)
眼鏡橋
『銀河鉄道の夜』を連想させる『眼鏡橋』(写真上)
岩手県遠野市宮守町の国道283号と宮守川に架かるJR東日本釜石線の宮守川橋梁(みやもりがわきょうりょう)は、通称『眼鏡橋』と呼ばれ、宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』の原風景を連想させる、宮守町のシンボル的な景観として親しまれています。1943年(昭和18年)に竣工。昭和18年の改修以前に釜石線の前身である岩手軽便鉄道時代に使われていた3基の石造の橋脚も現存していて、『銀河鉄道の夜』のモチーフにもなったといわれています(1)
【参考にしたサイト】
(1)フリー百科事典『ウィキペディア』
(2)
宮沢賢治 イギリス海岸(青空文庫)
(3)花巻の文化財紹介
(4)花巻市公式ホームページ宮沢賢治記念館トップページ
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