コラム | ・鯨の墓 |
− 鯨の墓 −
|
京都府の北端、丹後半島の東端に位置する伊根湾の周囲5キロメートルに沿って建ち並ぶ約 230軒の舟屋の中に1軒だけ、柱が内側に傾斜しているため切妻面が将棋の駒に似た舟屋が残っています。 舟屋めぐりの海上タクーの船長さんは、この駒形の舟屋は、捕獲した鯨(くじら)を解体していた鯨舟屋だと教えてくれました。かつて伊根湾では鯨漁がおこなわれていて、江戸時代初期の明暦2年(1656年)から大正2年(1913年)までの 257年間に計355頭の鯨を捕獲したという記録があるそうです。 そして、伊根湾の入口にぽっかり浮かぶ青島には『鯨の墓』があるそうです。昔、鯨を捕獲した際に、母鯨の乳にしがみついていた子鯨を漁師たちが哀れに思い、供養したという墓だそうです[1] 。金子みすゞの『鯨法會』という童謡詩を思い出します。 鯨法會 鯨法會(ほうえ)は春のくれ、 海に飛魚採(と)れるころ。 濱のお寺で鳴る鐘が、 ゆれて水面(みのも)を わたるとき、 村の漁夫(りょうし)が 羽織着て、 濱のお寺へいそぐとき、 沖で鯨の子がひとり、 その鳴る鐘をききながら、 死んだお父さま、お母さまを こひし、こひしと 泣いてます。 海のおもてを、鐘の音は、 海のどこまで、ひびくやら。 ※ 詩の出典は、『金子みすゞ全集』(JULA出版局)より。 寄り鯨・流れ鯨といわれるクジラを捕獲する、いわゆる受動的な捕鯨や捕鯨を生業にしていた地域において、食料や資源としての利用から、その地域が救われたり潤ったりしたことへの感謝の意味、供養の意味で鯨墓(くじらばか、げいぼ)が建てられたといわれます。 たとえば、大分県臼杵市の大泊では、1870年(明治3年)港湾工事の莫大な支出ため、財政が逼迫をしていましたが、その時、流れ鯨が現れ捕獲し、余すところ無く高値で売れたため、借金を返済することができたそうです。大泊に見られる鯨墓は、それに感謝し供養した墓という古文書が残っているそうです[2][3]。 また、江戸時代以前の組織捕鯨を生業にしてきた地域や以降の捕鯨を行ってきた地域でも、追悼や供養の意味を込めて墓が建てられ、特に積極的捕鯨をしてきた地域では鯨墓にととまらず、鯨過去帳の作成や卒塔婆や戒名や年一回の鯨法会まで行う地域まで存在するそうです。 かつては山口県長門市仙崎にも鯨墓が存在し、仙崎出身の童謡詩人・金子みすゞは、鯨墓が存在する地域の慣わしに感銘して『鯨法會』を書いたといわれます[2]。 【参考サイト】 [1] 潮風に誘われて、伊根の舟屋へ(ふれあい福祉〜京都・滋賀) [2] 鯨墓 - Wikipedia [3] 鯨の墓|臼杵市役所 伊根については、つぎの旅行記があります。 ■旅行記 ・伊根の舟屋− 京都府伊根町 |
|