レポート  ・YS-11物語   
− YS-11物語 −
戦後唯一の国産旅客機である YS-11 は、座席数64のプロペラ機です。このYS-11 が、先月(平成18年9月)30日、国内路線フライトの幕を閉じました。国内のYS-11は、日本エアコミューター(JAC 、本社鹿児島県霧島市)が二機を保有するのみで、福岡と鹿児島、松山、高知、徳島を結ぶ四路線で運航していましたが、2007年から空中衝突防止装置の設置が義務づけられることから、機体寿命より早く日本の民間航空からの撤退となりました。
 
              ***
 
『零戦』『隼』『紫電改』などの戦闘機を開発し、航空王国といわれた我が国でしたが、敗戦と同時に出されたGHQによる航空禁止令は、1956年(昭和31年)まで続きました。その間に、戦前の航空機資料は全て没収され、航空機の製造はもちろん、調査・研究、教育など、航空に関するすべての活動が禁止されました。日本の航空技術は振り出しに戻ったも同然の状況になりました。
 
そんな中で、航空禁止が全面解除になることを見越して、当時の通商産業省の主導で国産民間機計画が打ち出され、『輸送機設計研究協会』が設立されて、旅客輸送機の設計が始まりました。
 
参加したのは、零戦を設計した新三菱の堀越二郎、中島飛行機で隼を設計した富士重工業の太田稔、川西航空機で二式大艇を設計した新明和の菊原静男、川崎航空機で飛燕を設計した川崎の土井武夫といった、戦前の航空業界を支えた人たちでした。
 
YS-11 の機種名は、『輸送機設計研究協会』の輸送機の頭文字Yと設計のS、エンジン候補番号10案の1、機体仕様候補1案の1をとって命名されたものでした。
 
軍用機づくりに携わっていた人たちによって設計されたため、機体には軍用機の影響が強く、旅客機業界からは非常に扱いにくい機体だと言われ、また、航空先進国であった欧米では、すでに耐用年数などを踏まえた合理的な機体開発が行なわれていたのに対して、我が国では初めての旅客機製造であったため、不合理な設計が行われ、とても頑丈な機体になったのだそうです。
 
YS-11 の開発は、1959年(昭和34年)に設立された日本航空機製造(日航製)に引き継がれ、飛行試作機1号機が1962年(昭和37年)に飛行を開始しました。しかし、操縦性の悪さが露呈され、空気特性が悪いために振動と騒音が発生し、横方向への安定不足は特に深刻で、大規模な改修を余儀なくされました。
 
この改修が予想以上に手間取ったため、マスコミからは『飛べない飛行機』などと散々にこき下ろされましたが、試作機1号機の初飛行から2年後の1964年(昭和39年)8月に、運輸省の形式証明を取得し、国内線向けの出荷と納入が開始されました。同年9月9日には、全日空にリースされたYS機が東京オリンピックの聖火を日本全国へ空輸し、日本国民に航空王国復活をアピールしたものでした。
 
日本の航空業界の命運をかけて改修に改修を重ね、世界標準にも勝るとも劣らない機体となり、以来、合計 182機(国内民間機75機、官庁34機、輸出13カ国76機など)が製造されたYS-11 でしたが、販売網がうまく構築できないままで、予想より売上が伸びず、また初めて作った機体のために海外では信頼がなく、足元を見られて値下げを続け、原価を割った価格で受注することもめずらしくなかったそうです。
 
日航製の赤字が重なり、国会において追及されると、1971年(昭和46年)の国会で、ときの政府(佐藤栄作内閣)は、YS-11 生産中止と日航製の解散を決定し、翌年の末に販売を終了しました。
 
YS-11 は、主翼については約19万飛行時間、胴体は約22万5千時間に相当する疲労強度試験の行われた機体で、丈夫な機体だというのは世界的にも認められた事実でした。その頑丈なつくりのため、各国に輸出された機体にはまだ現役で飛び続けているものも少なくありません。日本エアコミューターを引退した二機のYS-11 は、空中衝突防止装置の設置が必要でないフィリッピンなどの海外の航空会社に売却され、活躍を続ける予定だそうです。
 
              ***
 
赤字が問題になっていた日航製でしたが、起死回生を図ろうとジェット機タイプの後継機計画が用意されていました。しかし、政府決定による YS-11生産中止のため、その計画も放棄され、以後日本から新たな国産飛行機が生まれないまま現在に至っています。YS-11 の国内路線からの撤退とともに、このことに寂しさを覚えるのは著者だけでしょうか。ありがとう YS-11、さようなら YS-11。
 
【参考】
・このレポートは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考にして 書きました。
・空中衝突防止装置の設置が義務づけられていない自衛隊においては、今後もYS-11 が現役で使用され続けます。
 
− 補遺 −
今後、日本で旅客機が開発されなければ、YS-11 で国産旅客機が途絶えてしまうことになりますが、実は着実に国産開発の芽が育っています。2011年(平成23年)の初飛行を目指して、『30席〜50席クラスの小型ジェット機』の国産開発計画が進行中です。大いに期待したいですね。
  
【備考】
下記のページに旅行記があります。
■旅行記 ・さようならYS-11 − 鹿児島空港
  → http://washimo-web.jp/Trip/YS-11/ys11.htm
 
【参考にしたサイト】
[1]YS-11:フリー百科事典『ウィキペディア』
 

2006.10.04 
あなたは累計
人目の訪問者です。
 − Copyright(C) WaShimo AllRightsReserved.−