レポート  ・黒田官兵衛と宇都宮鎮房   
 
− 黒田官兵衛と宇都宮鎮房
豊前宇都宮氏は、鎌倉幕府の御家人であった下野国(しもつけのくに、現在の栃木県域)の宇都宮信房(のぶふさ)が1195年(建久6年)に源頼朝によって豊前守護職に任ぜられたのが始まりで、城井谷(きいだに、現在の福岡県築上郡築上町)を本拠地としていたので城井(きい)氏を名乗っていました。
 
時代は流れ、戦国時代になって大内氏から大友氏そして島津氏へと周囲の勢力が変遷するなかでも、翻弄されながらも城井谷城は一度として侵されることなく存続していきました。
 
しかし、1586年(天正14年)より始まる豊臣秀吉の九州征伐においては、宇都宮鎮房(しげふさ、城井鎮房)もしぶしぶながら秀吉に従うこととなり、自ら出陣はしなかったものの、嫡子の朝房(ともふさ)を差し向けました。
 
朝房は随分活躍したらしく、戦後の1587年(天正15年)九州平定後の論功行賞で今治(愛媛県今治市)12万石が与えられ、豊前には黒田官兵衛(黒田孝高)が入ることになりました。これは、城井谷(推定3万石)から今治12万石への栄転でしたが、父祖伝来の地を守りたい鎮房はそれに反発し、秀吉と対決することを決意します。
 
鎮房の心中を知る毛利勝信が仲裁に入り、一度城井谷城を出て、その後に秀吉への嘆願を行うことを提案し、鎮房は城井谷城を明け渡します。しかし、秀吉からの旧領安堵の朱印は一向に来ません。願いが聞き届けられる見込みのないことを悟った鎮房は同年10月、城井谷城を急襲して奪回、籠城して豊臣軍を迎え撃つことになりました。
 
それに呼応して、豊前国中で国人(在地領主)が蜂起して大規模な一揆(豊前国人一揆)を起こします。体制の整っていなかった時期だけに官兵衛は鎮圧に苦労しますが、毛利氏の援軍を呼び寄せるなどして半年に及ぶ軍事行動で一揆を終息させました。
 
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しかし、鎮房は相変わらず城井谷城に居座り抵抗し続けます。こうした火種を抱えながらも、官兵衛は豊臣政権の一員として肥後(熊本)へ出兵しなければなりませんでした。九州征伐の恩賞として佐々成政(さっさなりまさ)が移封された肥後国50万石で大規模な一揆が勃発し、その鎮圧に駆り出されたのです。
 
このとき、中津の留守を預かった嫡子の黒田長政(ながまさ)は、兵を率いて城井谷城を攻撃しますが、険しい山間の地形のため制圧に手間取ります。そこで、武力による制圧を断念し、長政が鎮房の13歳になる娘・鶴姫を嫁にし、宇都宮氏の旧領を安堵するという条件で和睦を提示し、鎮房もこれを了承します。
 
鶴姫と長政の婚姻は、まだ築城工事中の中津城内で行なわることになり、1588年(天正16年)4月20日、鎮房は婚姻の宴(うたげ)に招かれます。しかし、これは長政の仕掛けた罠でした。従臣たちは城下の合元寺(ごうがんじ)に止め置かれ、小姓松田小吉を伴って中津城に入った鎮房は城内の館で謀殺されました。
 
そして、従臣たちが待機していた合元寺にも長政が差し向けた刺客たちが乱入してきました。いきなりの襲撃に従臣たちは応戦しますが、ことごとく斬り殺されて全滅しました。この時、寺の壁は返り血を浴びて真っ赤に染まり、その血痕は何度拭き取っても消えなかったといわれます。そのため、現在も合元寺の壁は赤く塗られ、『赤壁寺』の別名で中津の名所になっています。
 
鶴姫も侍女ともども磔(はりつけ)にされ、また鎮房の父・長甫(ながふさ)も城井
谷で殺害され、さらに嫡子の朝房も一揆鎮圧のために出陣中だった肥後国で官兵衛によって殺害されます。念入りに企てられた陰謀だったのです(わずかに朝房の妻・竜子は英彦山に逃れて男子を産み、豊前宇都宮氏の血筋は保たれました)。
 
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鎮房の死後、1591年(天正19年)、長政は深く感ずるところがあって城内に守護紀府(城井)大明神として鎮房を祀り、福岡移封後は黒田氏の居城となった福岡城にも城井神社を建立し、警固大明神として鎮房の霊を祀りました。
 
1705年(宝永2年)中津藩主・小笠原長円(ながのぶ)公は奇病が続いたのを宇都宮氏の祟りとして、小社を建て城井大権現として崇(あが)め、その後幾度かの変遷の後、城井神社として改められました。また、城井神社再興後、1920年(大正9年)、城井神社の境内末社として扇城神社(せんじょうじんじゃ)が建立され 鎮房公従臣四十五柱が祀られました。
 
〔補遺〕
宇都宮氏の粛清は、官兵衛が中津不在中に長政によって行なわれましたが、この陰謀はすべて官兵衛の指示で行われたといわれます。温厚で血を見ることさえ毛嫌いする、戦国時代きっての器量人といわれた黒田官兵衛でしたが、宇都宮氏の扱いについてだけは珍しくその非情さは苛烈を極めました。
 
これは、肥後において佐々成政の失政を目の当たりにしたからでしょう。早速に太閤検地を行おうとした成政は、それに反発する国人の大規模一揆(肥後国衆一揆)にあい、自力で鎮めことができませんでした。このため領地没収のうえ、1588年(天正16年)7月7日切腹という悲惨な末路を迎えました。
 
官兵衛も宇都宮氏の扱いを一歩間違えばその二の舞となりかねず、手段を選んでおれる状況ではなかったということでしょうが、黒田父子は宇都宮氏の怨念を、その後の移封先である筑前国へも引きずっていきます。福岡藩本藩で黒田氏の直系が断絶すると、宇都宮氏の怨念のなせるものだなどと噂されたりします。
 
【参考にした図書およびサイト】
(1)黒田官兵衛、〜 天国と地獄 〜 その波乱の生涯(株式会社メデアックス、平成25年11月30日発行)
(2)城井鎮房 − Wikipedia
(3)城井谷城 − Wikipedia
 
下記の旅行記があります。
 ■旅行記 ・中津城を訪ねて − 大分県中津市
 ■旅行記 ・合元寺(赤壁寺) − 大分県中津市
 


  2014.01.22
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