エッセイ  ・梅筵(うめむしろ)   
 
− 梅筵(うめむしろ) −
二週間ほど前、梅を漬け込むのに文字通り塩の塩梅(あんばい)と重しの加減に悩んでいた妻が、今度は、上がってきた梅酢が濁っている、どうも梅が腐ったようだと、残念がっている。
 
わが家では、私が、いわゆる日の丸弁当を所望するので毎年妻が梅干をつくる。私の生まれ育った北薩摩の田舎町(旧薩摩郡薩摩町)は、農業の他にこれといった産業のない寒村だった。平成の合併によって今は私が住む町(薩摩郡さつま町)に組み入れられている。
 
せめてものの村おこしにと始まったのが梅の栽培だった。それが今では、九州一を誇る南高梅の産地になっていて、2010年には『薩摩西郷梅』という商標が登録された。その名前は、明治から大正にかけて、旧町内にあった永野金山鉱業館長を務めた西郷菊次郎(隆盛の子)に由来する。というわけで、梅の入手に不便はない。
 
梅を腐らせた妻は昨年と同じやり方だったのになぜだろうとこぼす。こんなとき、母がいたら的確なアドバイスをしてくれるのだろうが、私も妻もすでにふた親を亡くしている。昭和30年代から40年代にかけて子育てに生きた、団塊の世代の農家の子の母たちは、実にいろいろなものをつくって自家用にあてた。
 
梅干や漬物などに限らず、味噌・醤油までつくった。炊事場の醤油置き部屋はいつも鼻をつく醤油のにおいで満ちていたし、秋になって味噌作りが始まると、縁側に寝かせた麹のにおいが家中に行きわたった。農作業の合間に戴く、あるいは何かお祝い事があったときに食べたりプレゼントしたりするお菓子も手づくりだった。
 
『高麗菓子』(これがし)は、小豆あんと米粉にもち米粉を混ぜ、砂糖を加えて蒸したお菓子。『ふくれ菓子』は、黒砂糖、小麦粉、鶏卵、重曹などの材料に水を入れて混ぜ合わせた後、形を整え、蒸篭(せいろ)で蒸し上げる。重曹によって膨れ上がることからその名がある。
 
『煎粉餅』(いこもち)は、もち米を煎(い)って粉にしたものを砂糖とともに湯で練り上げ木枠に入れて蒸してつくる。端午の節句になると、どの家も『あくまき』をつくった。木や竹を燃やした灰からとった灰汁(あく)に浸したもち米を、孟宗竹の皮に包んで、灰汁水で数時間煮込んでつくる。独特の食感と味がある。
 
味噌・醤油やお菓子をつくる原料を自前で調達するために、小麦や大豆や小豆、そばなどを栽培しなければならなかったから、その分農作業もきつくなる。真夏、大豆や小豆畑に入っての草取りや残暑の厳しい晩夏の収穫などは過酷な農作業であった。
 
貧乏暇なしの毎日だったし、親も子供も苦労を強いられる生活だったが、手づくりのものが溢(あふ)れていて、それに生かされていた。そうした生活は、自然と共存する生活であり、自然や国土の保全につながった。今振りかえってみると、一面、あの当時の生活が輝いてみえてくる。
 
さて、わが家の梅干は、もう一樽に漬けた方は順調なようなので、弁当に添える梅干は確保できそうである。梅雨が明けたら、天気の良い日を選んでいよいよ天日干し、いわゆる『土用干し』だが、その前に、店に出回るタイミングを見はからって赤紫蘇を手配しなければならない。それは毎年私の役目であるから、どことどこの店に売っているか心得ている。
 
天日干しは、『三日三晩の天日干し』といわれる。ぱらっとでも雨に降られるとカビが発生してしまうので油断ならない。笊(ザル)を使って干すが、昔は大々的には筵(むしろ)を使っていたのであろう。夏の季語に『梅筵』(うめむしろ)がある。
 
    梅筵母は小さき人だった ワシモ
 

  2012.06.27
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