コラム  ・寺山炭窯と薩英戦争   
 
− 寺山炭窯と薩英戦争 −
1862年(文久2年)、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩藩主島津忠義の父島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷する(1名死亡、2名重傷)という、いわゆる生麦事件が起きました。
 
1863年(文久3年)、この生麦事件の解決を迫るイギリスと薩摩藩の間で鹿児島湾において3日間にわたって行われた戦闘が薩英戦争です。薩摩藩の大砲は85門。そのうち60門が旧式の青銅砲などで、島津斉彬公が集成館事業でつくらせた鉄製大砲がたぶん25門ほどぐらいはあっただろうと推測されています。
 
その25門の鉄製大砲が活躍しました。一方、イギリス軍は89門のうち65門ほどは斉彬公のつくらせた鉄製大砲と同じような性能の鉄製大砲で、弾丸も同じようなもの。残る24門がアームストロング砲という、新しく開発されたとてつもなく大きな大砲でした。もちろん薩摩にはない、世界でもイギリスだけしか持っていない大砲でしたが、イギリスも実践に使ったのは初めだったので、使い勝手がうまくいかずに十分に効果を発揮できなかったといわれています。
 
  1851年(嘉永4年) 島津斉彬が近代洋式工場群の建設に取り掛かる。
  1854年(安政元年) 磯の造船所で日本初の洋式帆船いろは丸竣工。
  1855年(安政2年) 薩摩藩製造の蒸気機関船運雲行丸、試運転成功。
  1857年(安政4年) 2号反射炉が完成。大砲の鋳造に成功。
  1858年(安政5年) 寺山炭窯完成。島津斉彬急死。集成館事業縮小。
  1860年(万延元年) 島津忠義、島津久光により集成館再興。
  1862年(文久2年) 生麦事件
  1863年(文久3年) 薩英戦争で集成館焼失。
  1865年(慶応元年) 集成館機械工場竣工
            薩摩藩視察員・留学生計19名密航渡英。
  1867年(慶応3年) 鹿児島紡績所完成、操業開始。英人技師館竣工。
            大政奉還。
  1868年(明治元年) 戊辰戦争(ぼしんせんそう)勃発。
 
薩英戦争から45日後にはニュースがアメリカに伝わり、60日後にはイギリスやフランスに伝わり、『結局は引き分けだった』というふうに新聞に書かれたそうです。このまま戦争を続けると燃料がなくなるというので、イギリス軍はあきらめて横浜に引き返していったのでした。
 
これによって、世界の日本を見る目が変わっていきました。日本は植民地にできるような国ではないから、これから先は友好関係を築くことを考えようと。そしてイギリスも薩摩も考えをすぐに変えました。お互いに力を認め合って和平交渉を成立させ、友好関係が生まれました。
 
そして、薩摩はイギリスへ使節団や留学生(薩摩スチューデント)を派遣。またイギリスから技術者を招聘し、西洋技術を導入した新しい集成館工場群の建設を始めました。そして、新しい集成館でつくられた武器や物資が討幕戦争の圧倒的な勝利の原動力となりました。だから薩摩藩が明治維新を主導することができたのです。
 
いわばここ(寺山炭窯)が新しい日本の幕開けの原点であるわけです。鹿児島エリアにある5つの構成遺産(反射炉跡、旧集成館機械工場、旧鹿児島紡績所技師館、寺山炭窯跡、関吉の疎水溝)はすべて江戸時代につくられたのです。テーマは明治日本の産業革命遺産ですが、その出発点は斉彬公と忠義公の興した集成館事業でした。そのことが認められて、今回世界遺産への登録となりました。
 
(この記事は、寺山炭窯で聞いた鹿児島ボランティアガイドの方の話を参考にして書きました。)
 
旅行記 寺山炭窯跡 − 鹿児島市
 

  2015.09.23
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