コラム  ・寺山公園散策   
 
− 寺山公園散策 −
 
風景にも気骨がある
― 西郷が選んだ薩摩の士魂の開墾地 ―

 
『海は軽兆なほどあかるく「泣こよか、ひっ翔べ」という上代以来の隼人どもの心を、この青が染めあげたかと思われるほどに陽気であった』――とは『翔ぶが如く』を書いた司馬遼太郎氏の感想です。
 
この展望台は海抜400m、北に霧島連山、正面に紺碧の錦江湾、その真ん中にどっかと腰を据えた桜島、大隅半島の高隅山、南には薩摩富士と呼ばれる開聞岳、更には好天の日にははるか西に東シナ海まで望むことができます。
 
遣韓使節をめぐる政争に敗れ帰郷した西郷隆盛が、この寺山の地を選んで開墾社を設立、若者たちとともに自ら土と親しんだという歴史をみれば、西郷もまた、この絶景に心を寄せ英気を養った一人だったと想像できます。
 
東郷平八郎の筆による南洲翁開墾地の碑は、ここから寺山遊歩道を400mほど下ったところ、さらに下ると磯集成館で使用する良質の木炭を作るため島津斉彬が作らせた炭がまの跡があります。
             (以上、寺山公園(大崎鼻展望台)の案内板より)
 
『きらす(おから)の汁に芋飯食い馴れ候』
― 自ら鍬をとり始動した開墾社から西郷が大山巌に書き送った手紙です ―

 
1875年(明治8年)西郷隆盛はこの地に吉野開墾社を設立しました。遣韓使節をめぐる政争に敗れて帰郷してから2年後のことです。旧藩時代の牧場を大山綱良県令(知事)から払い下げをうけ元陸軍教導団の生徒150名とともに開墾事業を始めたのです。西郷も武村の自邸からせっせと通い、生徒たちとともに鍬をもちました。
 
昼は農業、夜は学問に励むこの学校は、39ヘクタールという広大な土地を開墾し、事業は軌道にのったかに見えました。ところが時代の波は、西郷の意志に反して、西郷を大乱の首魁へとまつりあげました。自ら農夫となって士族の将来をひらこうとした西郷の夢も西南戦争の敗北とともについえたのです。
                 (以上、南洲翁開墾地の碑の案内板より)
 
平成27年(2015年)9月上旬の土曜日。久し振りに仕事のことも公民会(自治会)のことも忘れ、ひとりカメラを持ってお出かけした先は、2015年7月5日に『明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域』として世界文化遺産に登録された『関吉の疎水溝』と『寺山炭窯跡』(いずれも鹿児島市)。幕末、維新の歴史を訪ねるお出かけでもありました。
 
明治維新期の開墾事業と言えば、思い出すのが、旧庄内藩(今でいう山形県鶴岡市、酒田市)の『松ヶ岡開墾場』のことです。
 
明治維新直後の廃藩置県の折、旧藩中老・菅実秀は旧庄内藩士の先行きを考え、養蚕によって日本の近代化を進め、庄内の再建を行うべく開墾事業に着手。明治5年、旧庄内藩士 3,000人が刀を鍬にかえ荒野を開墾開拓し、明治7年には 311ヘクタールに及ぶ桑園を完成させました。
 
庄内藩は戊辰戦争で新政府軍に執拗に抵抗した藩でしたが、旧庄内藩の人々は、戦後処理において西郷のとった極めて温情ある処置に深く感激し、明治になると、西郷を訪ね、教えを請うようになりました。
 
『松ヶ岡開墾場』は、現在、国指定史跡となっていて、開墾記念日には、旧庄内藩主・酒井忠篤と松ヶ岡開墾の志を支えた西郷隆盛、開墾開拓に取り組んだ菅実秀の肖像額を飾り、床の間には西郷隆盛より頂いた『氣節凌霜天地知』の箴言の掛字を掲げて式典が催されるそうです。
 
郷里に帰って吉野寺山に開墾社を設立した西郷の夢もまた同様の夢だったに違いありません。
  
寺山公園(大崎鼻展望台)から望む錦江湾と桜島
 東郷平八郎の筆による南洲翁開墾地の碑

  2015.09.15
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