レポート  ・ 高鍋藩 〜 秋月種実と楢柴肩衝   
 
− 高鍋藩 〜 秋月種実と楢柴肩衝 −
宮崎県児湯(こゆ)郡高鍋(たかなべ)町は、江戸時代中期に米沢藩(上杉氏)に養子入りして名君となった上杉鷹山(後に治憲、幼名・松三郎)を出し、また藩自体も藩士教育に熱心だったことから『教育の藩』として知られた高鍋藩の藩庁(高鍋城)があったところです。
  
東九州自動車道(宮崎市清武JCT 〜高鍋IC)も整備され、著者の住む鹿児島県北薩摩地方から車で2時間ほどあれば行けるのに、訪ねてみたいと思い続けながらやっと実現させたのは今年(2013年)9月のことでした。
  
今は史跡公園となっている高鍋城跡(舞鶴公園)や黒水家住宅(高鍋藩家老屋敷)、城堀が残っている高鍋農業高校やその近辺の静かな佇まいの中を歩くと、当時の城下の雰囲気が感じられてくるようでした。
  
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『人生は邂逅(かいこう)である』と言ったのは、昭和期の文芸評論家・亀井勝一郎(1907〜1966年)でしたが、あちこちあれこれの歴史を知るたびに、歴史もまた人と人、人と物、人と出来事との遭遇(邂逅)の繋がりに違いないと思われてきます。
  
上杉鷹山は、高鍋藩第6代藩主・秋月種美(たねみつ)の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれました。実母が早くに亡くなったことから一時期、祖母(実母の母)である豊姫の手元に引き取られ養育されました。この祖母が米沢藩第5代藩主・上杉綱憲の娘であった縁で、米沢藩への養子入りとなったのでした。
  
歴史の繋がりをたどれば、そもそも名君・上杉鷹山が生れたのは、それよりずっと以前、豊臣秀吉の九州征伐において豊臣勢と戦って敗北を喫しながら、減封といえども日向高鍋3万石への移封によって秋月氏の存続が許されたからに他なりません。
  
秋月氏は、鎌倉時代の1203年(建仁3年)、原田種雄(たねかつ)が幕府より秋月庄(現在の福岡県朝倉市秋月)を賜り、秋月城(現在は城跡のみ)の築城を始めたのが始まりとされます。それ以降原田氏は秋月氏を名乗り、以後秋月は城下町として栄えました。
  
しかし、第16代当主・秋月種実(たねざね)のときの1587年(天正14年)、豊臣秀吉が九州征伐に乗り出してきました。このとき、種実は、時代の流れを悟って秀吉に従うように諫言した忠臣・恵利暢堯を追放して切腹に追い込んだ上、島津方に与して秀吉率いる豊臣勢と戦いますが敗北しました。
  
籠城中に秀吉得意の一夜城作戦(益富城)により戦意を喪失し、降伏することになった種実は剃髪し、『楢柴肩衝』(ならしばかたつき)という茶器を秀吉に献上しました。この茶器献上によって、日向国高鍋へ減封移封ながら秋月氏の存続が許されたのでした。
  
減封移封に失意した種実は家督を嫡男の種長(たねなが)に譲って隠居し、その後、関ヶ原の戦いを経て、1604年(慶長9年)秋月種長を初代藩主とする高鍋藩が成立しました。
  
一方、秋月は、江戸時代に入り1623年(元和9年)福岡藩を統治していた黒田長政の遺言により、長政の三男黒田長興が5万石で分封され秋月藩が成立、城下が立て直されました。以後、黒田氏による統治が明治時代の廃藩置県まで続きました。
  
その秋月藩4代藩主・黒田長貞と米沢藩第5代藩主・上杉綱憲の娘(豊姫)との間に生まれた春姫を母に、高鍋藩第6代藩主・秋月種美を父に上杉鷹山は生まれました。秋月家と黒田家(初代長政)そして上杉家(初代謙信)という名門の血筋を引き継いでいたわけです。
  
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一時期は筑前、筑後、豊前に推定36万石にも及ぶという広大な所領を築き上げた秋月氏でしたが、第16代当主・種実(たねざね)のとき、九州征伐に乗り出してきた豊臣秀吉に敗北、種実は名器・『楢柴肩衝(ならしばかたつき)』を献上することで降伏が許され、日向国高鍋へ減移封ながら秋月氏の存続が許されたのでした。
  
秋月氏を救い、ひいては高鍋藩の成立を実現させた『楢柴肩衝』という茶器はどんな運命をたどったどんな茶器だったのでしょうか。
  
南宋末〜元初期(13〜14世紀)作の肩衝茶入で、高さ 8.6cm程であったらしいです。『肩衝(かたつき)』とは、肩の部分が角ばっている、すなわち肩が衝(つ)いている茶入のことを言います。
 
釉色が濃いアメ色であったことから、『濃い』を『恋』にかけて、さらに『恋』から『万葉集』の『御狩する狩場の小野の楢柴の汝はまさで恋ぞまされる』の歌に因んで、『楢柴肩衝』という名になったといわれます。初花(はつはな)・新田(にった)とともに『天下の三肩衝』といわれます。
 
もともとは室町幕府第8代将軍・足利義政の所有物でしたが、義政の死後は持ち主を転々とします。村田珠光(わび茶の開祖で足利義政の茶の師匠)からその弟子・鳥居引拙へ渡り、さらに天王寺屋宗伯(堺の豪商)から神屋宗白(博多の豪商)へ、そして同じく博多の豪商・島井宗室の手に渡りました。
 
織田信長もこの名物を欲しがり、商売の保護を条件に献上するように宗室に命じたとされますが、本能寺の変により実現しませんでした。信長は、本能寺の変の前日の天正10年6月1日(1582年6月21日)本能寺の別院で大茶会を催しました。
 
この茶会は、島井宗室を正客として、信長秘蔵の名物茶器を披露する茶会でしたが、宗室を招いてなんとか楢柴肩衝を手に入れようという魂胆があったとされます。もし信長がこの茶会を開いていなかったら本能寺の変は起きず、歴史は変わったものになったかも知れません。
 
さて、楢柴を信長に献上せずにすんだ島井宗室でしたが、豊後の戦国大名・大友宗麟から大金を出すので譲って欲しいと再三要請があります。宗室はこれを断り続けますが、博多のある筑前国で勢力を伸ばしてきた秋月種実が楢柴を渡すように迫ってくると、この名物を譲ることになりました。
 
このとき、宗室へ種実から大豆百俵が送られているそうですが、楢柴の価値は約3000貫、現在の価値でいえば数億円以上ともされており、種実が武力行使をちらつかせながら、半ば脅迫に近い形で奪いとったのに違いないといわれています。
 
秋月種実から秀吉に渡った『楢柴肩衝』は、秀吉臨終の際に、徳川家康に授けられ、徳川将軍家の所有になりましたが、4代将軍・徳川家綱の時代、明暦3年(1657年)の明暦の大火で消失したといわれます。
 
しかし、明暦の大火ではどうにか破損に留まり、修繕されて厳重に保管されながらも、その後紛失し消息が一切分からなくなったともいわれており、結局どのような顛末であったのか。大火で焼失したのか、何物かに持ち出されたのか。今もこの世のどこかに現存しているのか否か。今なお謎に包まれていることから『幻の茶入』と称されています。
 
以上、秋月氏の存続と日向高鍋藩の成立にかかわる『秋月種実』と『楢柴肩衝』の話しでした。
 
【参考にしたサイト】
(1)楢柴肩衝−Wikipedia
(2)楢柴肩衝茶入 of 茶道具専門店(有)菊池商店 茶の湯 墨東清友館
(3)信長はなぜ本能寺で殺されたのか、あとすごい九州国立博物館
 
【備考
下記のPDFファイルで、秋月家・上杉家・黒田家の関係(家系図)を見ることができます。
 → http://washimo-web.jp/Report/akidukike_kakeizu.pdf
 
下記の旅行記があります。
■旅行記 ・高鍋城跡(舞鶴公園) − 宮崎県児湯郡高鍋町
 → http://washimo-web.jp/Trip/Takanabe/takanabe.htm
■旅行記 ・黒水家住宅 − 宮崎県児湯郡高鍋町
 → http://washimo-web.jp/Trip/Kuromizuke/kuromizuke.htm
 

  2013.10.16
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