レポート  ・娼婦と呼ばれた俳人、鈴木しづ子   
 
− 娼婦と呼ばれた俳人、鈴木しづ子 −
7年前に俳句を始めた頃、あるインターネット句会にちょっとした色恋を詠んだ句を投句したところ、”俳句は花鳥風月こそ好かれ”というニュアンスのお叱りのコメントを頂いたことがありました。
 
”花鳥風月こそ好かれ”ということであれば、俳句は苦しみや嘆きや怒り、あるいは滑稽さなどといったものは詠えないのだろうか、詠ってはいけないのだろうかという疑問を持ったものでした。
 
その後、俳句には多種多様の作風があることを知ったのですが、娼婦俳人あるいは幻の俳人と呼ばれた鈴木しづ子という人とその作品を知ったときには、大きな衝撃を受けました。『女』や『性(せい、さが)』を主題に、心の奥底にあるものが大胆に詠まれているのです。例えば、
 
   性悲し夜更けの蜘蛛を殺しけり
   肉感に浸りひたるや熟れ石榴
   欲(ほ)るこころ手袋の指器に触るる
 
といった具合です。
 
鈴木しづ子という俳人の存在を知ったのはつい2年前のことでした。それも、2009年8月発行の『夏みかん酢っぱしいまさら純潔など』(河出書房)と、2011年1月発行の『しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って』(川村蘭太著、新潮社)という2つの本によって初めて、鈴木しづ子のことが世に広く明らかにされたばかりなわけですから、無理からのことです。
 
 (1)処女句集『春雷』(昭和21年、しづ子27歳)
 
昭和15年(1940年)、当時おもに軍需品を作っていた東京日吉の岡本工作機械製作所(現在は研削盤メーカーとして知られている)に製図工として一人の女子が入社して来ます。鈴木しづ子21歳。
 
しづ子は、大正8年(1919年)6月、東京神田に会社員の長女として誕生しました。東京淑徳高等女学校を卒業。目指す女子大への入学試験に失敗すると進路を変更し、専修製図校に入学します。女子はしづ子たった一人だったそうです。この進路選択には父の勤務(土建会社、間組)の影響があったといわれます。
 
岡本工作機械製作所に入社したしづ子は、たまたま上司に誘われて社内の俳句サークルに入部します。この句会の指導に訪れる専門の俳人・松村巨湫(きょしゅう)との出会いが、しづ子にとって決定的なものとなりました。
 
しづ子は巨湫を師と仰ぎ、巨湫はしづ子の才能を大きく開花されたばかりでなく、のちに黒子に徹しきってしづ子の活動を演出し後押しすることになるのです。昭和18年(1943年)、巨湫の主宰する句誌『樹海』に初投句。
 
しづ子は、明るく頑張り屋で、そこらのどこにでもいる普通のいい娘でしたが、作句に打ち込むひたむきな姿勢には並々ならぬものがありました。やがて、”自主出版に応じます”という新聞広告を目にしたしづ子は、自分の句集の出版に夢を膨らませます。
 
師がそれを許すはずがないと思いながら師に相談してみると、巨湫はあっさりそれを聞き入れ、あまつさえ序文を寄せてくれるのでした。昭和21年(1946年)2月、処女句集『春雷』を上梓。
 
しづ子27歳。句作を始めてわずか6年目のことでした。若い女性の仕事上の苦しみや恋の悩みなどが、清新に率直に詠まれていますが、信じられないことに、この種の本としてはよく売れ、ちょっとしたベストセラーになりました。専門誌や俳人も好意的でした。処女句集『春雷』の中から5句ほど。
 
   水中花の水かへてより事務はじめ
   あぢさゐのたわわにあるや通過駅
   夫ならぬひとによりそふ青嵐
   秋ゆふべねぢ切るわざを見てならふ
   あきのあめ図面のあやまりたださるる
   
ここに、俳壇の新進スターが誕生し、鈴木しづ子は一躍、得意の絶頂に達したのでした。しかし、2年後の昭和23年(1948年)職場結婚するものの1年余りで結婚生活を解消し、岐阜市内へ転居していったのです。しづ子の中で何が起きたのか、以後しづ子の作風はまったく違ったものになります。
 
 (2)第二句集『指環』(昭和27年、しづ子33歳)
 
”♪こんな女に誰がした〜”、菊池章子の歌う『星の流れに』のうら悲しいメロディが流れ、スカーフにくわえ煙草のパンパン(娼婦)が立つ街角。岐阜市内へ転居したしづ子は、昭和25年(1950年)、岐阜市柳ヶ瀬近辺のダンスポールでダンサーの職業に就きます。
 
同年6月、朝鮮戦争勃発。やがてしづ子の姿は、『キャンプ岐阜』と呼ばれた那珂町(現、各務原市)の進駐軍相手のキャバレーに見られるようになりました。いかにも外人好みらしい、すらりと背の高いとびっきりの美貌の持ち主のしづ子は、引く手あまただったに違いありません。
 
黒人軍曹ケリー・クラッケは、なかなかのハンサムで知的でかつ誠実なナイスガイでした。二人は恋仲になり、やがて同棲を始めます。そんな中でも、しづ子はおびただしい量の俳句を大学ノートにしたため、巨湫のもとに送り続けます。掲載は師の裁量任せ、巨湫は取捨選択し発表していきます。
 
翌年6月、恋人ケリーが戦火の朝鮮へ出兵。そしてわずか2ヶ月後の8月、佐世保に帰国しますが、かなり重度の麻薬常用者になっていたらしい。しづ子が献身的に看病するも、心身のバランスを崩したケリーは、母国テキサスに帰るしかありませんでした。翌年の昭和27年(1952年)の元旦、しづ子のもとにケリーの訃報が届きます。
 
そうした中で、しづ子と遠く離れた『樹海』では、彼女の第二句集『指環』の発刊計画が進められていて、昭和27年(1952年)1月発行。同年3月、その出版記念(於東京神田神保町)にしづ子が現れます。
 
ついに伝説の主が登場ということで、その姿を一目見たさに人々が押し掛け、出版記念会は大盛況だったそうですが、同年9月15日付の大量投句を最後に、しづ子は消息不明となりなります。第二句集『指環』の中から5句ほど。
 
   ダンサーになろか凍夜の駅間歩く
   黒人と踊る手さきやさくら散る
   体内にきみが血流る正坐に耐ふ
   娼婦またよきか熟れたる柿食うぶ
   蟻の体にジュツと当てたる煙草の火
 
心底にあるものを憚りなく書きなぐるように吐露する句には強烈に伝わってくるものがあります。鈴木しづ子。平成25年(2013年)9月、いまどこかで生きているとしたら、95歳になります。 (文中、敬称略)
 
【参考文献】
(1)鈴木しづ子著『夏みかん酢っぱしいまさら純潔など 句集「春
   雷」「指環」』(河出書房、2009年8月初版発行)
(2)川村蘭太著『しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って』(新潮社、
   2011年1月発行)
  

(C)新潮社
 

  2013.09.04
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