レポート  ・ 岩村城 〜 女城主の悲話物語   
 
− 岩村城 〜 女城主の悲話物語 −
本丸が海抜717mの高所にあったため日本三大山城の一つに数えられる岐阜県恵那市岩村町の岩村城は『女城主の悲話』で知られる城でもあります。美濃(現在の岐阜県南部)と信濃(現在の長野県)の国境にあった岩村城は、美濃を支配下に置いていた織田信長と信濃を領国にしていた武田信玄の抗争が本格化すると、激しい争奪戦にあうことになります。
 
要衝にある岩村城の重要性を考えていた織田信長は、岩村城主・遠山景任(とおやまかげとう)に、美貌で知られた自身の叔母・おつやの方(信長の父・織田信秀の妹)を妻として娶(めと)らせ、一門衆として遇していました。
 
一方、上洛を目指す武田信玄は、家臣の秋山信友に東美濃を攻めさせます。岩村城の景任は懸命に防戦するものの、不幸にもその最中に病死してしまいます。景任が病没すると信長は、自身の五男で当時6歳(2歳あるいは3歳説もある)の坊丸(のちの織田勝長)を遠山氏の養子とした。
 
但し、坊丸はまだ幼かったので、おつやの方が当主の座を引き継ぎ、岩村城の女城主となりました。その女城主の岩村城を秋山信友は攻め立てるのですが、岩村城はなかなか陥落しそうにありません。そこで、秋山はひそかに計を巡らします。
 
岩村城中に密使を送り、『結婚して無事に城を明渡し、坊丸を養子として家督を譲ることにしてはどうか』とおつやの方を説得したのです。おつやの方も、到底最後まで城を守ることが出来ないと悟り、元亀4年(1573年)、秋山の提案を承諾します。家臣や領民を守ることの引き換えに政略結婚の道を選んだのでした。
 
しかし、秋山は信長の叔母と結婚したことを武田信玄に嫌われるのを恐れ、坊丸を甲府に送って信玄の人質にしてしまいました。これを聞いた信長は激怒しますが、この頃は近畿攻略に追われていたのでそのまま放任せざるを得ませんでした。
 
東美濃では武田優位の情勢が続きますが、天正3年(1575年)の長篠(ながしの)の戦いで潮目が変わります。武田の力が衰えると、信長は、嫡男の信忠を総大将にして岩村城に大軍を差し向けました。
 
信忠の大軍は激しく攻め立てますが、岩村城兵も捨て身で防戦し、城は容易に落ちません。そこで、戦法を変えて持久戦をとり、約半年間にわたって城を包囲します。援軍は無く、兵糧も乏しく城兵は飢えに苦しんでいる。『叔母の城に火をかけるのは忍びない』と、今度は信長が謀り事を企てます。
 
秋山は城兵の助命を条件に城を明け渡しました。しかし、信長は約束を果たしませんでした。秋山信友をはじめ、おつやの方らを岩村城外の大将陣において、逆磔(さかさはりつけ)にして殺しました。この時、おつやの方は、声をあげて泣き悲しみ、
 
『我れ女の弱さの為にかくなりしも、現在の叔母をかかる非道の処置をなすはからずや因果の報いを受けん』
 
と絶叫しつつ果てたといわれます。織田信長が本能寺で殺されるのはその7年後のことです。
 
一方、甲府に送られて人質となった坊丸はどうなったかといいますと、8年後の天正9年(1581年)に送還され、安土城で信長と対面します。同年、元服して織田勝長と名乗り、尾張国犬山城主となります。
 
兄・信忠の与力として甲州征伐(信長が甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦)に参陣し活躍を見せますが、本能寺の変において信忠と共に、明智光秀の軍勢に攻められて二条御所で奮戦ののちに討ち死にしました。
 
下記のページが参考になります。
  旅行記 ・岩村を訪ねて − 岐阜県恵那市
 
【参考サイト】
(1)岩村藩 − Wikipedia
(2)女城主の物語(岩村町観光協会ホームページ)
(3)武将列伝番外 女性列伝・おつやの方
(4)
岩村城 結婚受け入れた女城主(朝日新聞、東海の古戦場をゆく)
(5)織田勝長 − Wikipedia
 

  2014.03.05
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